Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

江馬氏下館

復元された江馬氏下館

 江馬氏の平時の居館で、国指定の史跡。

 江馬氏は、平清盛の異母弟である経盛の流れとする桓武平氏の血統で、飛州志では、経盛の妾腹の子であった輝経が北条時政に養育され、伊豆国田方郡江馬荘から江馬小次郎を称したという。

 一方、ほぼ同名の江間小四郎と言えば北条義時の事で、他の北条氏系の人物にも江馬姓は幾人か見え、北条氏の庶流とも考えられるが、飛騨の江馬氏とどのような繋がりを持つかは不明である。もし、北条氏系の江馬氏の枝葉であった場合、同じく桓武平氏の貞盛流ではあるものの、得宗家と同じく直方流の系統となり、経盛流は間違いということになるが、実際はどうなのだろうか。また、よくある話として、地方豪族が名門に仮冒しただけというのも、十分に考えられる話である。

江馬氏館跡公園の説明

 江馬氏が歴史上に登場するのは室町時代で、応安5年(1372)に江馬但馬四郎の名が見えるという。江馬氏の下館が機能していた期間は、発掘調査から14世紀末以降とされており、ちょうどこの頃に館は整備されたようだ。また、江馬氏は、幕府重鎮の伊勢氏と関係があり、後の文明3年(1471)に見える左馬助は、政所執事伊勢貞宗庶子で、江馬氏を継ぎ、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱で東軍に与したことが見える。

 その後、江馬氏は永正年間(1504-1521)に一旦没落したと見られ、没落後に時経が登場して順調に戦国大名として成長していくのだが、館の廃絶時期は16世紀初頭と推定されており、恐らくこの没落時に荒廃し、そのまま放棄されたのだろう。時経以降は上館、つまり高原諏訪城を平時の城としても使い、やがて飛騨国の雄となっていくのである。

下館の西堀

 下館が使われた時期は、前述のように14世紀末から16世紀初頭で、居館と詰という中世的な標準構成であるのだが、現在残る居館の構成や庭園などの規模は、領地の石高に比してかなり大きく、在地豪族の居館という範疇には収まっていない。

 富の集約が進む戦国時代後半ならまだしも、戦国時代初頭という時代背景を考えると、守護クラスの規模を持った居館と言えるのではないだろうか。つまり、本拠である高原郷の収入以外に鉱物資源や木材による収入が相当大きかったのだろう。

 館の構造は、ほぼ100m四方の方形の敷地に4つの建物と1つの庭園を備え、西の土塀に主門と脇門の2つの門を開き、土塀の前には空堀が穿たれていた。その西の門前区画には馬屋と宿直屋という家屋があった推定されており、その両脇は広場になっていたようだ。

江馬氏下館案内図

 現在は、これらの土塀と門、堀、建物のひとつである会所が復元されているが、建物は恐らく当時よりも立派に復元されているのだろう。とは言え、当時の姿を想像するにはその存在は非常にありがたく、江馬氏の威勢を感じることができる。

 発掘調査前は、大きく高い庭石5つの先端が農地に突き出しており、江馬氏の庭跡という話が伝えられていたという。その後、神岡銅山からの鉱山廃水によってイタイイタイ病が引き起こされ、皮肉にもそのカドミウムを除くべく農地の土壌改良で汚染土壌が撤去された事をきっかけに、発掘調査で庭跡であることが裏付けられた。

 綺麗に復元されているため、現在の姿からはとても想像できないが、沈痛な歴史の影がある遺跡ということで、単なる整備された居館跡というだけではなく、重い印象も併せて残った城である。

発掘前は頭だけ地上に出ていたという庭園の庭石

 

最終訪問日:2017/5/20

 

 

非常に綺麗に整備された居館跡でした。

川筋から少し高く、往時の頃は自分の支配する城下の町や田園を眺めたんでしょうね。

いかにも領主の館という感じの場所に立地する居館でした。