Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

掛川城

掛川城復興天守と太鼓櫓の遠景

 文明年間(1469-87)頃に、駿河守護今川義忠が家臣の朝比奈泰煕に命じて築かせたというのが掛川城の初見であるが、この時に築かれたのは北東数100mにある掛川古城であった。掛川古城を築いた泰煕は、そのまま城主となり、子泰能が永正9年(1512)かその翌年に龍頭山に築いたのが、現在の掛川城である。字は懸河城や懸川城とも書く。

 遠江国は、かつては今川氏が守護職に就いていたが、後に斯波氏が守護となったため、斯波氏と今川氏の間で壮絶な争いが繰り広げられた国である。

 東の駿河を本拠地とする今川氏にとって、駿河に隣接する遠江東部を固める拠点として、また、東海道の街道筋を押さえる要衝として、掛川城は非常に重要であった。また、家中トップクラスの重臣である朝比奈泰能が、その掛川に鎮めとして在るというのは、今川家の家臣や領民の人心を落ち着かせる効果もあったのだろう。

掛川城本丸

 弘治3年(1557)の泰能の死後、3年後の桶狭間合戦で今川家当主の義元が信長に討たれ、今川氏の凋落が始まるのだが、泰能の跡を継いだ子泰朝は、その後も主家を支え続け、永禄11年(1568)の武田信玄駿河侵攻の際には、今川氏を見限った家臣の寝返りなどで今川という家が瓦解していく中、軍を保てなくなった義元の子氏真を掛川城へ迎え入れている。そして、信玄と共闘して遠江を併呑しようと東進してきた家康に城を囲まれたが、約5ヶ月の籠城戦を戦い抜いた。

 しかし、頼みの北条氏の援軍は駿河の武田軍と睨み合って膠着状態となってしまい、やがて開城勧告を容れ、氏真の安全と引き換えに翌同12年(1569)5月に城は開城することとなる。そして、泰朝は氏真に従い、北条氏の領国である伊豆へと退去した。

 徳川氏の城となった掛川城には、家康の古くからの重臣である石川家成が入り、東海道の難所である小夜中山を挟んで武田氏の諏訪原城と対峙したが、激しい争奪戦が繰り広げられた南の高天神城とは違い、元亀3年(1572)に武田軍が押し寄せた以外は、大きな戦いはなかったようだ。

全国的に珍しい建物である掛川城二ノ丸御殿の玄関

 その後、家成の隠居に伴い、子康通が城を引き継いだが、天正10年(1582)には武田氏の滅亡によって駿河が徳川領となり、軍事的な重要性はかなり低下したかと思われる。

 天正18年(1590)の小田原の役後、家康は北条氏旧領の関東へと移され、城には山内一豊が5万1千石で入部した。この時の東海道には、駿府中村一氏掛川山内一豊、浜松の堀尾吉晴三河吉田の池田輝政と、秀吉の古参家臣や、本能寺の変直後に秀吉与党となった面々が据えられており、あからさまな家康への警戒が見て取れる。

 一豊は入城後、未だ中世の城の域を出ていなかった城郭の大改修に取り掛かり、天守の造営と天守丸の独立、城下町の整備などを行って近世城郭としての体裁を整えた。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、一豊はいち早く東軍に属すことを表明したことが評価されて土佐の国主となるのだが、その首府として築城した高知城は、掛川城を参考にしたといわれ、古風な望楼式の高知城天守は、掛川城天守によく似ていたという。しかし、元になった掛川城天守は、慶長9年(1604)の地震で倒壊しており、一豊時代の姿がどうであったのかは、残念ながら不明である。

掛川城三日月堀

 江戸時代は、一豊の後を受けて久松松平家の定勝が3万石で入部したのを皮切りに、安藤氏、久松松平氏、朝倉氏、青山氏、桜井松平氏、本多氏、藤井松平氏、北条氏、井伊氏、桜井松平氏、小笠原氏、太田氏と、東海道を扼す城という重要性もあって、北条氏を除いて親藩譜代が領する城であった。

 この間、久松松平氏の定綱の時代である元和7年(1621)に天守が再建されているが、やはり地震によって宝永4年(1707)の桜井松平忠喬の時に倒壊と修復が行われ、太田氏の時代である嘉永7年(1854)にも、安政東海地震によって倒壊し、計3度倒壊してしまっている。その後、御殿や太鼓櫓などは再建されたが、天守が再建されることなく、維新後の明治2年(1869)に廃城となって払い下げが始まり、同6年(1873)の廃城令で正式に廃された。

 城は、南の逆川、北西の倉真川を天然の堀とし、北東方向から伸びてくる丘陵地の突端、比高数10mの龍頭山に築かれている。

掛川城解説板

 構造は、頂上の天守丸を中心に、南の中腹に本丸、北東から東に更に下がって二ノ丸、そして本丸の東側で二ノ丸の南東側にあたる所に三ノ丸を置き、天守郭と本丸は、乾堀、十路盤堀、三日月堀、松尾池と、水堀がぐるりと囲っていた。これら主郭部以外では、二ノ丸北側に竹ノ丸があり、松尾池の南には帯郭のような松尾郭があったほか、平地にも幾本かの堀が穿たれ、侍町として外郭を成していたようだ。

 ただ、絵図や資料によって二ノ丸と三ノ丸の位置が入れ替わっており、縄張図を見る時には注意が必要だろう。

 現在の掛川城は、遺構自体は主郭部しか残っておらず、一部は改変も受けているが、二ノ丸御殿と大手番所、元々は三ノ丸にあった太鼓櫓が現存し、特に御殿については、他の城にもほとんど残っていないため、非常に貴重な建物である。

掛川城黒土塁

 平成7年(1995)には、天守と大手門が復元され、特に天守は日本最初の木造復元天守となったが、一豊時代の初代の姿に近付けようとしたため、江戸時代の絵図とはやや違う点もあるらしい。また、大手門は、区画整理の影響で、本来の位置から50mほど北の位置にあるという。

 城をざっと散策してみると、もともと本丸であった天守丸付近は急峻な地形となっており、近世の象徴である天守を持ちながら、中世の城郭の雰囲気が非常に強い。これが、現存、復元を問わず、天守を持つ各地の城とは一線を画す掛川城の魅力だろうか。

 市街地からもよく見える城で、天守自体の大きさはそれほどでもないのだが、街の象徴として非常に存在感を感じる城である。

 

最終訪問日:2013/12/26

 

 

自分が訪れた時は冬で、城内や天守を十分見学できる余裕を持ったつもりで4時過ぎに行ったんですが、冬季の天守の入閣は4時までで、御殿も同じく見学できず、なんだか片手落ちの城内散策になってしまいました。

新幹線の駅から近いので、何かのついでにリベンジしやすいのは救いですね。

冬に訪れる人は、自分のようにならないよう、見学時間に気を付けて訪れて下さい。