Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

田原城

 戸田氏によって築かれた城。

 三河戸田氏は、寛政重修諸家譜には藤原北家流正親町三条氏の出とあり、公治の子実興が下向し、その子宗光の時に戸田を称したというが、清和源氏の出自とする説もある。清和源氏説では、源義家の曾孫で美濃森氏の祖となる森頼定の十男に信義がおり、尾張国海東郡戸田荘を領して戸田を称し、その子孫である南北朝時代の宗忠の養子として正親町三条家から綱光、もしくは実興という武将が入ったとされているが、これも伝承に近い話だろう。正親町三条氏が、戦国戸田氏の初期の本拠となった三河国碧海郡に領地を持っていたため、その関係性からの仮冒という説もあり、明確な出自は不明である。

 史料にはっきりと登場する戸田氏としては、綱光か実興の子もしくは孫とされる、室町中期から戦国時代初頭にかけての当主宗光がおり、前述のように碧海郡に勢力を持っていた。

原城址碑と復元された桜門

 応仁元年(1467)からの応仁の乱では、伊勢氏の家臣として東軍に属し、渥美郡分郡守護代で西軍に属していた一色政照の領地を攻めて渥美郡に進出し、田原一帯を領有化している。そして、文明9年(1477)頃に政照は京から帰還するのだが、和を求めたのか武力により傀儡化されたのか、同11年(1479)には、宗光は政照の猶子という身分を得て渥美半島支配の正統性をも得た。この直後の同12年(1480)頃に、本拠地として築かれたのが、この田原城である。

 宗光は、渥美半島だけではなく、知多半島の東岸にも進出し、三河湾を支配するなど、その後の戦国戸田氏の地勢的性格を決定付けた武将だが、その室は徳川氏の実質的な創業者である松平信光の娘で、後の三河の有力国人が同じような時代に勃興しているのは興味深い。歴代の守護であった一色氏の衰退によって、そのような勃興機運が当時の三河にはあったのだろう。

原城本丸跡にある巴江神社

 その後の宗光は、晩年に渥美半島を統一し、その付け根に勢力を持っていた牧野氏と対峙するようになるが、これに西三河から進出してくる松平氏も加わり、複雑な様相を呈するようになる。

 16世紀初頭までは、松平氏と戸田氏が連携し、その進出を抑えたい今川氏の意向に沿って牧野氏が今橋城を防衛するという情勢であったが、松平氏に清康が登場すると、猛烈な勢いで三河統一に邁進し、今橋城や牧野氏はおろか、享禄2年(1529)には宗光の曾孫康光までもが服属に追い込まれてしまう。しかし、清康は天文4年(1535)の尾張出兵の際に守山崩れで横死したため、松平氏織田氏の逆襲を受け、勢力を後退させて今川氏に従属し、康光も今川氏に服属した。

 この後、天文6年(1537)に一門の戸田宣成が牧野成敏を破って今橋城を奪うなどの動きがあったが、これに対しては今川氏の警戒を受けて宣成が討伐されており、従属下での勢力拡大には限界があったようだ。

原城の水堀と桜門

 また、天文16年(1547)には、松平広忠が後の家康である嫡男竹千代を、今川氏への人質として送るべく、康光に預けているが、老津を出た船は三河湾を西進し、織田氏へと送られてしまうという事件が起こっている。

 康光は、広忠の後室の父であり、義理の外孫でもある竹千代を織田氏へ売ったのだが、この背景には、今川氏の統制を脱したい思惑と、松平氏を織田方へ寝返らせて手土産とする算段があったのだろう。また、三河湾知多半島を通じての織田家との交流もあったと思われる。

 しかし、広忠が今川方に留まったため、康光の思惑は外れ、同年に今川軍の攻撃で城は落城し、三河戸田氏の宗家は滅んだ。ただ、戸田氏自体は、仁連木城に在った康光の次男宣光が今川氏に味方し、後に徳川家臣となって生き残ったほか、康光の弟光忠が滅亡の際に脱出して松平家臣となり、庶家として続いている。また、系図は不明確ながら、別家として一西、氏鉄父子を輩出した系統があり、江戸時代には、戸田氏自体は譜代として栄えた。

本丸と二ノ丸の間の空堀の石垣

 戸田氏の滅亡後、田原城には今川氏の城代が在城し、天野景貫、朝比奈元智の名が見え、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦後は、元智と岡部輝忠が駐屯している。しかし、今川氏の衰退を見た家康が独立を志し、永禄7年(1564)にはその家臣本多広孝が田原城を攻め、両将を追って城を攻略した。戦後、城は功のあった広孝に与えられ、そのまま家康の関東入部まで在城している。

 天正18年(1590)の家康の関東入部後は、城は吉田城に入った池田輝政の属城となり、その重臣伊木忠次が城主を務めた。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦での功によって輝政が加増転封されると、翌年には前述の光忠の孫尊次が入って戸田氏が田原へ復帰したが、寛文4年(1664)に三宅氏に代わり、三宅氏が維新まで続いている。

 城は、三河湾を掌握した戸田氏らしく、主郭が海に臨む海城とも言える立地で、巴型に湾入していた海にちなんで巴江(ハコウ)城の別名を持つ。だが、伊木氏時代にあったとみられる近世城化の改修や江戸時代の干拓により、現在ではその面影は無くなっている。

原城解説板

 城の縄張としては、蔵王山からなだらかに続く丘陵突端に本丸を置き、その南西に二ノ丸、南側に三ノ丸を配置し、付随する郭として二ノ丸の西に出郭、本丸の北に藤田郭があった。また、本丸や三ノ丸、藤田郭からは馬出のような腰郭がそれぞれにあり、これらは城門に繋がっている。

 石垣が厳重に築かれているのは、二ノ丸と三ノ丸の接続点と桜門付近で、石垣の水堀が造られ、枡形にもなっており、城の規模と比して非常に重厚であった。このほか、南側には武家屋敷や城下町が営まれて外郭を構成し、惣構もあったという。

 維新後の城は、明治5年(1872)から破却が始まり、翌年の廃城令で正式に廃城となった。現在は、本丸が巴江神社の、二ノ丸が田原市博物館の、三ノ丸が護国神社の、それぞれ敷地となっており、建物等で城内には城跡らしい視界の広さは無かったのだが、逆に言えば、建物があった往時の城は、こんな感じであったのかもしれない。

 また、城がコンパクトにまとまっているだけに、視界は広くなくても、全体像は把握し易く、散策では妙な小気味良さも感じた。ただ、桜門や二ノ丸隅櫓は復元なのだが、外観は当時のものとは異なっているというのには注意が必要である。

 

最終訪問日:2015/5/23

 

 

今は周囲に街並みが広がっていますが、戦国時代頃の海に臨む城も見たかったですね。

かつての城内には神社や博物館など、色々な施設が建っていて、古城という雰囲気はありませんが、田原城の場合は現役感が出ていて、それもまた良しという感じでまとまっていました。