佐久郡南部の豪族である伴野氏の家臣、井出長門守が築いたと伝わるが、築城時期は不明である。もともとは、南の甲信国境に対する監視連絡拠点として築かれたのだろう。
伴野氏は、戦国時代には、同じ小笠原氏の庶流であった大井氏と、佐久郡の支配権を争っていた。しかし、大永7年(1527)に大井氏に敗れて甲斐に落ち延び、甲斐守護の武田信虎を頼ることとなる。これを受けた信虎は、争いに介入して伴野氏と大井氏を和睦させ、伴野氏を復帰させるのだが、これ以降、武田氏は佐久郡に対する影響力を強め、しばしば出兵するようになった。
次に城の事績として伝わるのは、天文9年(1540)に村上義清の家臣である薬師寺右近が在城していた城を、武田家重臣の板垣信方が知略で陥落させたというものである。
当時、佐久郡への進出を図る義清と信虎との対立があったが、これはその対立の一場面なのだろう。また、すでに海尻城は伴野氏の手を離れていたようであるが、これは恐らく、再び佐久郡から追い落とされた伴野氏の救援のためだったかと思われる。
この武田軍による攻略により、信虎は佐久郡への前進基地の獲得に成功した。そして、小山田虎満(昌辰)、あるいはその先代である古備中と呼ばれる武将が本丸を固め、二ノ丸には日向昌時(虎頭)、三ノ丸には長坂国清(昌房)を入れている。
しかし、同年12月には、地侍が村上氏と通じて蜂起し、これに乗じた村上家臣額岸寺光氏が攻め寄せた。城は、二ノ丸まで攻略されたが、本丸は堅く守って落とせず、晦日になって甲斐から後詰の本軍が来着したことにより、村上勢は撤退したという。これを海尻城の合戦と呼ぶ。
このように、義清と信虎は佐久郡を巡って激しく対立していたが、この翌年には、一転して両者は提携し、信虎の娘婿である諏訪頼重も併せた3者で小県郡の海野氏一党を共同で5月に撃破して滅ぼしたほか、佐久郡でも大きく勢力を拡げた。この一連の侵攻では、海尻城は武田軍の中継拠点となり、伴野氏も旧領を回復したようで、信虎は伴野氏の前山城を拠点として佐久郡の36の城を落としたという。
だが、城の事績はここで途絶える。
侵攻のあった翌月に甲斐へ帰国した信虎は、すぐ駿河へと赴いたのだが、その際に嫡子晴信(信玄)によってそのまま追放されてしまう。これにより、佐久郡への武田氏の影響力は低下し、佐久郡の豪族は息を吹き返すのだが、この時に海尻城がどうなったのかは知れない。また、晴信による佐久郡への侵攻が天文12年(1543)に始まるのだが、その際もどのような役割を果たしたか不明である。
その後、西上野への拠点として、信玄は内山城を重視していたことから、海尻城も甲信を結ぶ際の中継拠点として機能したと考えられるが、信玄時代の詳細は不詳で、その後の廃城時期も判っていない。
城は、現地案内板には山城とあるが、麓まで郭を拡張した平山城である。恐らく、初期は山上の部分だけの砦に近い規模の城であったが、村上氏による改修か、あるいは武田氏による改修によって、収容兵力を増やすために麓まで拡張されたのだろう。
城は、八ヶ岳と呼ばれる峰々から東へ続く尾根筋の末の末、愛宕山と呼ばれる山に築かれており、北に大月川、東に千曲川が流れ、標高は40m程度ではあるが、所堅固の城である。
山上の郭は、背後を堀切で断ち切られた3段の削平地といくつかの段郭があるが、これらをまとめて本丸としており、東麓に二ノ丸、北麓の医王院に三ノ丸があった。東麓の二ノ丸が殿岡という地名になっていることや、山上の郭がそれほど幅を持った削平地ではないことから、二ノ丸に城主居館が置かれていたのだろう。
海尻城は、国道141号線沿いに在り、国道沿いに案内があって分かりやすい。ただし、駐車場と案内板は城の南側にあるものの、山上の本丸への登城口は反対の北側の医王院にあるため、少し注意が必要である。医王院では、登城口に冠木門が建てられており、見つけやすいだろう。
城の二ノ丸と三ノ丸には、城の痕跡はあまり残っていないと思われるが、山上の本丸は綺麗に草も刈られて整備されており、二ノ丸と三ノ丸の跡地を見下ろしつつ、往時を想像しながら散策すると愉しい城だった。
最終訪問日:2019/5/11
南から国道141号線の緩やかなカーブを抜けていくと、お城の案内が急に出て来てびっくりしました。
山上の本丸に立って見下ろすと、川筋の配置が絶妙で、山間の城という雰囲気がプンプンしててよかったですね。