Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

江尻城

 武田氏の駿河支配の拠点として築かれた城。小芝城ともいう。

 江尻城が築かれた背景には、武田信玄駿河侵攻がある。甲斐の武田氏と駿河の今川氏は、信玄の父信虎の代から誼を通じ、信玄の代には北条氏を含めた三国同盟を形成した。しかし、永禄3年(1560)に今川義元桶狭間の合戦で信長に討たれ、信玄の信濃経略も一段落すると、信玄は海を求めて南へと目を向けるようになる。こうして、永禄11年(1560)12月、信玄は今川氏と正式に手を切り、駿河へと侵攻した。

 義元の子氏真は、これに対抗して迎え討つ態勢を取ったが、今川家臣の間にはすでに信玄の調略の手が伸びており、軍の体裁を保てぬまま氏真は掛川城へと落ち延び、事実上、今川氏は崩壊してしまうのである。

 こうして、難なく駿河中央部を制した信玄は、駿河平定を進めると共に東西の北条氏と徳川氏に対抗すべく城の整備を行っていくのだが、それがこの江尻城であり、興津の横山城であり、藤枝の田中城であった。

江尻城の別名である小芝城と刻まれた城址

 城は、縄張を馬場信房、奉行を今福和泉守として翌12年(1569)正月から築城工事が始められ、最初は武田信光と数百の兵が入って守備したといい、この年か翌年には山県昌景が正式に城代として任命されている。ただ、築城工事自体は、元亀へ改元する数ヶ月前の永禄13年(1570)2月にも続けられていたという。

 その後、昌景が天正3年(1575)の長篠の合戦で討死すると、横山城に在った穴山信君が後任として入城しているが、信玄からの信頼が厚かった昌景や、武田親族衆筆頭である信君が据えられたというところを見ると、武田氏の駿河支配において、江尻城が非常に重要視されていたことが解る。

 信君は、甲斐の河内地方を支配する一門家臣であったが、信虎が武田氏の内訌を平定するより前の時代に河内地方へ定着したため、甲斐が不安定な頃に築かれた隣接する今川氏との関係性もあり、やや独立的な領国支配を許されていた。そのため、信君がこの城を中心に支配した駿河の領域は江尻領と呼ばれ、河内領同様、やや独立的な領国運営が行われたと一般には考えられているが、一方で他の諸説もあるようだ。

江尻城案内板

 この穴山時代、城は信君の手によって天正6年(1578)に大改修を受け、望楼や城下町も整備されたほか、現在の魚町稲荷社も鎮護の社として建立され、武田氏の本格的な支配拠点となったという。

 しかし、長篠の合戦から7年経った天正10年(1582)2月、織田徳川連合軍が、木曾義昌の寝返りをきっかけとしてついに甲州征伐に乗り出すと、信君自身は、取次を担当していた家康を通じて織田氏に寝返り、本領の安堵と、武田氏の惣領を子勝千代が継ぐことを許されている。

 こうして、武田氏滅亡という動乱期を乗り切った信君であったが、同年6月の本能寺の変の際、運悪く京に滞在しており、帰郷を急ぐ途中で土民に襲われ、落命してしまう。激動の時代を生き抜いた武将の最期としては、何ともあっけない終わり方であった。

 穴山氏の家督は、家康によって子勝千代への相続が許されたが、幼少ということもあり、統治は家康の家臣団が行い、実質的に徳川領と一体的に支配されたようだ。そして、天正15年(1587)の勝千代早世によって穴山氏は断絶してしまい、正式に江尻城は徳川領となった。

かつての二ノ丸であった二の丸町の説明板

 この頃の城番としては、本能寺の変直後には本多重次が在城していることが見え、そのほかに松平家忠や天野景康も城番を務めたという。その後、天正18年(1590)の小田原の役の後に家康が関東へ移封となり、代わって駿府に入った中村一氏の家臣横田隼人が入城したが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に中村氏が加増転封となり、翌年に城は廃城となった。

 城は、巴川の蛇行部分の北東側にあった微高地の本丸から、同心円を描くように東二ノ丸と西二ノ丸、三ノ丸を設け、その郭の間を巴川の水を引いた内堀と外堀で画すという構造で、武田氏の城らしく3ヶ所の丸馬出があったという。だが、現地復元図に馬出は確認できなかった。遺構自体は、大正の頃まで残っていたというが、実際の縄張はどうだったのだろうか。

 現在の城跡には、残念ながら市街地化で遺構と呼べるものは全く無い。堀の残滓も無く、唯一巴川が雰囲気を残すのみだが、その巴川も河川改修による直線化で、往時の流れとは違う。とは言え、痕跡が全く無いわけではなく、本丸跡にある清水江尻小の隅に城址碑があるほか、周囲の道などに説明板が幾つかあり、数は少ないながら城の痕跡を辿ることが可能だ。

 

最終訪問日:2013/12/26

 

 

ぶらっと現地を散策してみると、小学校に本丸門というのがあったり、二ノ丸町についての説明板や櫓という地名を見つけたりと、かつての姿を偲べるものがあり、遺構は無くとも散策を楽しめる城でした。

川筋の旧市街という町の雰囲気も、落ち着きと寂びがあって、これもまた良かったですね。