Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

妻女山陣所跡

 5回に渡って激突した川中島の合戦の中でも、最も激戦であった永禄4年(1561)の第4次川中島の合戦の際に、上杉政虎(謙信)が陣取ったといわれる場所。

 川中島の合戦は、甲斐から信濃に侵攻して北信までを併呑しようとする武田信玄と、北信の豪族による救援依頼に加えて自領の上越に対する防衛線の維持を図る謙信との間で行われた戦いで、川中島周辺で行われたことからこの名がある。

 激戦となった第4次の戦いは、直前の3月に謙信が関東に出兵して小田原城を包囲し、上杉家の名跡を継いで関東管領に就いた事が、要因のひとつとなった。つまり、関東へ介入する立場となった謙信にとって、小田原北条氏の同盟軍として北信で陽動する武田軍は、関東出兵の際に留守を衝かれないよう叩いておく必要がある、厄介な存在であったのだ。

女山川中島古戦場の図

 越後帰国から間もない8月、謙信は春日山城を発って信濃へ入り、15日に善光寺に輜重隊を残し、自らは武田方拠点である海津城を見下ろせるこの妻女山に布陣した。

 対する信玄は、海津城からの知らせを受けて16日に甲府を出発し、24日に茶臼山に布陣した後、29日に海津城へ入城しているが、一説には、最初は茶臼山ではなく塩崎城に入城し、海津城へ転じたともいう。

 そして、9月9日に武田軍別動隊が闇夜に紛れてこの妻女山を急襲すべく出陣するのだが、海津城から昇る炊煙に出陣を察知した謙信は、機先を制して夜間に背後の雨宮の渡しから千曲川を渡って川中島に展開し、信玄本隊の正面に相対したのである。こうして、最も激戦となった第4次の川中島の合戦の火蓋が切られたのであった。

女山から川中島の眺め

 ただ、史料を細かく読み解いていくと、名前については違った姿が見えてくる。

 陣所となったこの妻女山の名称は、江戸時代に講談の類によって、上杉軍の将兵が妻女を偲んだという描写から一般化した名称という。第4次の川中島の合戦について最も詳しく描かれている「甲陽軍鑑」出てくる名は、西條山である。

 ただし、西條山、あるいは西条山というのは、実際には陣所跡から南にかなり離れた山の事を指し、陣所跡のある妻女山が含まれる山系一帯は斎場山と呼ばれていたようで、斎場と西條を間違えた可能性があるという。この斎場山は、古代の古墳もある場所で、死者を葬る場所から、祭場あるいは斎場と呼ばれるようになったらしい。

女山から海津城の眺め

 また、現在の妻女山は、この斎場山の東峰にあたり、地元では赤坂山などと呼ばれていたようで、殿を務めた甘粕景持が陣を敷いた場所であったともいう。この辺り、史実と伝承がこんがらがっているようだ。

 現在の妻女山の陣所跡には、戊辰戦争の戦死者を祀る招魂社が建てられているほか、古戦場一帯が見渡せるように展望台も設けられている。陣所跡までは車道が通っており、平地から見ると妻女山の山容は急峻なのだが、訪れるのは思ったよりも楽だった。

 展望台からは、松代市街や海津城がよく見渡せ、眼下の川中島の様子も手に取るように分かり、さすが陣所となるだけの場所だ。また、当時の情景を思い浮かべながら、両軍がどのような動きをして激突に至ったのかを理解するのには、最適の場所でもあった。

 

最終訪問日:2018/5/30

 

 

小雨が降り始めた中での散策になってしまって、景色はそこまで明瞭ではなかったんですが、眺望の良さはさすがでしたね。

海津城もよく見えるので、炊煙の煙で判断したというのにもリアリティがあります。

甲陽軍鑑の著者には諸説ありますが、ここに登ったのかもしれませんね。