Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松本城

 言わずと知れた国宝5城の内のひとつ。

 深志郷を領していた坂西氏の、1町四方程度の居館の上に、永正元年(1504)に小笠原氏の一族、島立貞永が築城した城で、小笠原氏の本拠である林野城の支城として築かれ、深志城と呼ばれていた。以後、大永年間(1521-28)にその孫貞永が荒井城に移るまで、島立氏が在城していたが、以後の城の事績はよく分らない。

 小笠原氏は、甲斐源氏の庶流である加賀美遠光の次男小笠原長清を祖とする家で、全国に散らばる小笠原氏の嫡流にあたる。代々信濃守護を務め、戦国期の初頭には名家にありがちな内訌で力を衰えさせていたが、長棟の代に一族を統一して再び力を盛り返していた。深志城は、この長棟の父貞朝の頃の築城で、伊那小笠原家の定基と対立していた時期と思われる。

 長棟が立て直した小笠原家であったが、跡を継いだ子の長時は、勇猛な武将であったものの粗暴で家臣に対する思いやりが少なく、家臣の心は次第に離れていったという。

 天文17年(1548)の上田原の戦いで、武田晴信(信玄)が村上義清に敗れると、長時は武田氏の支配する諏訪地方へ侵入を繰り返すようになり、同年7月、武田氏に叛旗を翻した豪族を支援するため、諏訪と府中を画す塩尻峠へと出陣したが、武田軍の不意の急襲と家臣の離反で大敗した。そして、2年後の同19年(1550)には、晴信の侵攻によって長時は義清を頼って落ち延び、深志城も林野城と共に武田軍に接収されたようだ。

 ちなみに、この長時や後に晴信に敗れた義清が上杉謙信を頼ったことが、5度に渡る川中島の合戦を誘発することとなる。

 小笠原氏の没落後、晴信は、小笠原氏の本拠であった林野城を破却し、信濃経営の本拠地を深志城と決め、武田四名臣のひとりとして知られる馬場信房(信春)を城将に任命した。

 深志城は、甲斐から北信濃への中継地点として活用され、城主の信房も晴信の主たる合戦にほとんど参加したが、信玄の没後の天正3年(1575)の長篠の合戦で討死してしまう。

 代わって深志城代となったのは、嫡子の昌房であったが、天正10年(1582)には織田・徳川連合軍による武田領への侵攻が本格的に始まり、武田氏から寝返った木曾義昌の侵攻を受け、戦わないまま深志城を放棄した。しかし、同年6月に本能寺の変が起こって信長が横死したため、さらに情勢は目まぐるしく変化する。

 織田家臣で信濃を領していた森長可や毛利秀頼らが信濃から濃尾へ撤退した後、上杉景勝の援助を得た長時の弟貞種が義昌を追って深志城を奪取し、30余年振りに小笠原氏が旧領へ復帰したのも束の間、今度は織田家臣から家康の影響下に転じていた長時の三男貞慶が、貞種を追って深志城に入っており、最後には同族による争奪戦となった。また、この時に城は松本城へ名を改められている。

 信濃府中に復帰した貞慶は、反小笠原的な小領主を討伐する一方、旧家臣の所領安堵や寺社に領地を寄進するなどして安定化を図った。また、家康が木曾氏に松本城周辺の支配を認めた際には険悪となったが、木曾軍を撃退して家康と和解した後は、小牧長久手の合戦の際に秀吉方となった木曾氏を攻めるなど活躍している。しかし、徳川家草創の頃から西三河の旗頭として一翼を担ってきた石川数正が、天正13年(1585)に出奔して秀吉に寝返ると、貞慶もこれに同調して秀吉方へと転じた。

 その後、秀吉と家康が和睦した際に信濃の差配を家康に任せたため、小笠原氏や木曾氏は再び家康に属することになったが、貞慶の子秀政の室に家康の長男である信康の娘を迎えたことにより、外様の扱いのままで最終的に改易されてしまった木曾氏とは対照的に、小笠原氏は江戸時代も有力親族として生き残っている。

 天正18年(1590)の小田原征伐後、家康は関東に移封されたため、秀政も古河へと移り、代わって数正が松本城へ入った。この数正と子康長が、松本城を大改修し、現在も国宝として残る天守を含めた城郭を造るのである。

 数正の死後、遺領は康長以下3人の子に分知され、兄弟は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に属して生き残ったが、慶長18年(1613)に領地隠匿で改易となった。これは、領地隠匿は表向きで、同年に死去した大久保長安の縁戚であったからとも、数正の裏切りに対する家康の報復であったともいわれている。

 石川氏に代わって松本城に入ったのは、20余年ぶりの復帰となる秀政だったが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で討死してしまい、その次男忠真が家督を継ぎ、程なく播州明石へ移封となった。その後、戸田松平氏、越前松平氏、堀田氏、水野氏、戸田松平氏と続いて維新を迎えている。

 松本城は、本丸の三方を二ノ丸が囲み、その本丸と二ノ丸の四方を三ノ丸が囲うという、輪郭式に近い構造であった。もともとは居館から出発した城で、深志の語源が深瀬であるとされているように、湿地帯を防御の要とした城であり、天守築造の際には軟弱地盤を補強するため、地中に杭などが打たれている。

 これらの支柱が年を経て腐ってしまい、江戸時代中期から天守が傾いたままであったというのが長らくの定説であったが、古写真からレンズによる傾きの可能性と、時代が前後する写真による矛盾が検証され、本当は大きく傾いてはいなかったという説が有力となっているようだ。一方で、貞享騒動で城を睨んで傾かせたという、多田加助の伝承も伝わっている。

 城自体は、明治4年(1871)の廃藩置県で機能が失われ、翌年に競売に掛けられて取り壊しの危機に遭ったが、市川量造の尽力によって買い戻され、難を逃れた。正式に廃城となったのは、同6年(1873)の廃城令によってである。

 現在の城は、周知のように天守が国宝に指定されており、その一連の建物群は、五層六階の大天守と乾小天守を渡櫓で結び、辰巳附櫓と月見櫓を複合したというもので、さすがの重厚さを持つ。だが、城地は本丸と二ノ丸の一部、そして内堀と中掘の一部が残っているのみで、敷地で見た場合は国宝の城としてはやや物足りない。

 城の本丸は、野面積みの石垣で囲まれているが、二ノ丸、三ノ丸は土塁であったようで、東国の城の面影があり、黒壁の武張った大天守とは対照的に、月見櫓の欄干と、本丸と二ノ丸を結ぶ埋の橋の朱が優雅な趣を感じさせる城である。

 

最終訪問日:1996/8/24

 

 

本丸へと架かる埋橋の朱色が、印象的で美しいお城です。

お城のプラモデルで興味を持ったのが、松本城との最初の出会いでした。

今思えば、確かにプラモデルとしてこれほど映える城はないですよね。