Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

南熊井城

南熊井城の表示と解説

 田川の河岸段丘に築かれた崖城。

 南熊井城の事跡は、僅かしか見られない。城の位置関係から見て、東の北熊井城の支城として運用されたことは想像に難くない城だが、「片丘村誌」には、嘉吉2年(1442)に大和織部正の熊野井館として登場し、一帯の支配を強化するために、東の険阻な地形に新たに北熊井城を築いたとあるようだ。

 これが正しいとするならば、南熊井城は居館として出発し、新たな拠点として北熊井城が築かれた後は、その支城として使われたということになる。

 以後は、南熊井城単体として史料に出てくることは無く、北熊井城と同様の歴史を辿ったのだろう。史料から追うと、天文14年(1545)に北伊那の高遠氏と藤沢氏を屈服させた甲斐の武田晴信(信玄)は、藤沢氏を攻撃する際にその援軍として出陣していた信濃守護小笠原長時を撃退しているのだが、長時を追撃する形で松本平に侵攻して示威行軍をしており、北熊井城と共にこの城も落城したと思われる。

南熊井城の最高部に建つ社と削平地

 これは、武田家臣駒井高白斎の「高白斎記」に書かれているのだが、そこには熊野井の城としか書かれておらず、恐らくは、北熊井城や南熊井城などを総称してのことだろう。ちなみにこの時、熊野井の城は自落したとあるので、内応者が出たか降伏したと見られる。

 その後、同じく「高白斎記」には、熊野井の城に対して天文21年(1552)に改修を始めたことが見え、信玄の命で府中の主城となった深志城の支城として熊野井の城が取り立てられたようだ。ただ、以降は武田氏の支配体制が安定したことから、史料には城の名や熊井の地名が登場せず、詳細は分からなくなってしまう。

 次に熊井の地名が登場するのは、武田氏の滅亡後で、武田氏滅亡と同年の天正10年(1582)に起こった本能寺の変の後に、徳川家臣として深志城を奪った小笠原貞慶が、その股肱の臣である溝口貞泰に塩尻と北熊井を与えた事が見え、貞泰は北熊井城に在城したと推測される。だが、塩尻と北熊井の間に位置する南熊井には触れられておらず、当然の事ながら当時の南熊井城に誰が在城したか、さらに言えば城の存廃自体もよく判っていない。

南熊井城の郭の縁辺に残る空堀

 城は、現在残っている遺構では単郭方形の城だったように見えるが、標高差の無い東側の地形に空堀以外の何の工夫も無いため、何らかの続きの郭か構造物があったものの、開墾によって失われたのではないだろうか。単郭部分は、北側に土塁と横堀、虎口が備えられ、東から南に掛けては空堀が確認できる。

 城は、北熊井城から東南へ1kmほどの場所に位置し、県道63号線沿いの松林寺の裏手にあるが、周囲にはランドマークが無いため、松林寺を目指すのが手っ取り早い。

 西の田川に削られた河岸段丘の崖を防御力とした城のため、西側から見ると、なかなかの圧迫感を持っている。この圧迫感があるが故に、南東側の手薄さが余計に気になる所だが、往時の丘陵上はまだ未開墾だったと思われ、軍が展開できないような荒れた原野が広がっていたのであれば、前衛基地の機能としてはそれほど背後の防御に気を使わなくても良かったのかもしれない。

 遺構として確認できる部分はそう多くない城ではあるが、北熊井城と同様に、土の普請が見事な城だった。

南熊井城の切岸

 

最終訪問日:2018/5/30

 

 

近世的な雰囲気すらある近くの北熊井城と比べると、非常に中世的な城で、近隣だけに対比が良かったですね。

セットで訪れる事をお勧めします。