Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小諸城

 千曲川の断崖上にある崖城。

 川沿いの断崖に築かれた城は、一般的に平坦な地形に築かれる場合が多く、城や城下町は、平城のように同程度の高さというのが多いのだが、同じく崖際に築かれた小諸城は、崖から離れた場所にある城下町よりも城内が低い穴城となっている。

 小諸城は、もともとは平安時代に当地の豪族小室光兼の築いた居館が前身といい、その館は小諸城の東側にあったという。

 小室氏は小諸氏と書くこともあり、信濃の大族滋野氏の一流とされ、木曾義仲の挙兵に従ったことが見え、義仲没落後は頼朝に仕え、小諸の居館に在り続けた。その後、室町時代中頃に大井氏が小諸に進出し、やがて長享元年(1487)に大井光忠が築いた鍋蓋城が小諸城の直接的な前身となり、それは現在の大手門付近にあったという。

 この大井氏は、佐久郡大井郷に興り、光忠の祖父持光の頃の最盛期には6万貫を領したというが、子政光の時の享徳3年(1455.1)に享徳の乱が起こり、後ろ盾であった鎌倉公方が古河へ移った事で、信濃国外の領地が次第に失われ、伴野氏や甲斐武田氏、村上氏との争いを経て、鍋蓋城築城前の文明16年(1484)に没落した。そして、大井氏自体は甲斐武田氏系ともいわれる永窪大井氏が名跡を継ぐのだが、領地であった佐久郡自体は、村上氏がほぼ掌握していたという。

小諸城大手門

小諸城天守

 光忠の父光照は、最盛期の当主持光の子とされるが、一説には甲斐武田氏の出身であったともいい、詳細はよく分からない。光照が、滋野系大井氏出身で婚姻等によって武田氏系に組み入れられたのか、それとも武田氏系永窪大井氏へ武田氏から送り込まれた存在だったのかは横に置くとして、惣領を継いだ永窪大井氏に属していたのは間違いなさそうだ。

 また、前述の大井宗家滅亡の際に、大井殿が小諸へ落ちたとする史料もあり、これが光照自身のことだったのか、それとも光照を頼って一門が落ちたのか定かではないのだが、この頃の小諸一帯は、大井氏にとって基盤のひとつだったようである。

 その後、前述のように光照の四男光忠が鍋蓋城を築き、その子光為(光安)の時には今の二ノ丸付近に支城として乙女城を築いたが、以降の事跡はあまり伝わっていない。

 現在の城の原形が整えられるのは、天文23年(1554)に武田信玄が城を東信濃の拠点として大規模に改修してからで、鍋蓋城と乙女城を取り込んだ上で拡張し、その縄張は山本勘助が担当したとの伝承が伝わっている。武田家中では、奪った城の最初の城代として、勇将である小山田昌辰や飯富虎昌が入ることが多いが、小諸城には両人とも城代として名が伝わっており、佐久の内山城と共に小諸城はかなり重視されたようだ。

小諸城南ノ丸の野面積の石垣

小諸城二ノ丸の先にある二ノ門跡と石垣

 上記伝承とは前後するのだが、前後の事績を史料から拾うと、高坂昌信が天文22年(1553)から城代を、信玄の甥信豊が弘治2年(1556)から城主を務め、永禄2年(1559)には下曽根浄喜が城代となっている。この下曽根時代は、城主が信豊で城代が浄喜という説と、浄喜単独で城代だったとの説があるようだ。

 その後、天正10年(1582)の信長による甲州征伐では、鳥居峠で敗れた信豊が20騎余りで小諸城に落ちて再起を図ったが、浄喜の寝返りで信豊は自害に追い込まれてしまい、更に信豊の首を織田軍に献上した浄喜も、結局は不忠として誅殺されたとも追放されたともいう。

 織田氏支配下では、小諸城上野国厩橋城に入った滝川一益の属城となり、その家臣で甥の道家正栄が城代を務めていたが、3ヶ月後に起こった本能寺の変後に一益は北条氏に敗れ、一旦はこの小諸城に退却し、武田旧臣である依田信蕃に城を明け渡して上方へと退去した。

 この直後、甲斐信濃の武田旧領では、天正壬午の乱と呼ばれる北条氏と徳川氏の争奪戦が勃発し、城には上野から侵攻した北条家臣大道寺政繁が入るが、信蕃は徳川方として周辺豪族を説得すると共にゲリラ戦を重ねて補給線を分断するなど、大いに北条勢を悩ませている。

小諸城本丸北側の北谷の堀はそのまま千曲川へと落ち込む

小諸城二ノ丸の入口となる三ノ門

 結局、この争奪戦は、最終的に甲斐信濃を徳川領とすることで和睦し、功の大きかった信蕃には小諸城が与えられた。しかし、翌11年(1583)に北条方として抵抗する大井行吉の岩尾城攻撃中に信蕃は討死してしまっている。

 信蕃の死後、その勲功を評価した家康は、信蕃の子に松平の姓と一字を与えて松平康国と名乗らせ、小諸6万石を与えた。

 天正18年(1590)の小田原の役後に家康が関東へ移ると、小田原の役の功で大名に復活した仙石秀久が5万石で入部し、今の城郭や城下町を整え、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、中仙道を進む徳川秀忠も入城している。

 その後、仙石氏は秀久の子忠政の時に上田へ転封となり、小諸領は甲府の徳川忠長領に吸収され、屋代秀正や三枝昌吉、依田守直が城代を務めたが、寛永元年(1624)に忠長の駿河加増によって久松松平憲良が新たに入部し、小諸藩が復活した。憲良の無嗣改易後は松本藩の預かりを経て青山宗俊、酒井忠能、西尾忠成、大給松平氏、牧野氏と続いて維新を迎えている。

 維新後は、明治5年(1872)に陸軍へ城地が引き渡されて払い下げなどが行われ、更に翌年の廃城令で正式に廃城となった。以後、大手門を含む城郭建造物はそれぞれ寺や民家などで使われたが、城地は明治13年(1880)に払い下げによって懐古園として整備されており、この時に本丸に懐古神社が建立されている。

小諸城の説明と案内図

小諸城から断崖の下の千曲川を望む

 城は、千曲川へと落ち込む谷と崖を巧みに利用した構造で、主郭部は三角形を上下二分する形で大きく東西2つ分かれており、上側の三角形にあたる東側部分の先端に二ノ丸を置き、その西に南北並んで北ノ丸と南ノ丸があった。その西には深い空堀を挟んで、三角形の下側部分として本丸があり、続いて本丸西側に三角形底辺に沿う形で馬場が大きく存在し、この馬場が主郭部で最大の郭となる。

 天守台は、本丸の北西端にあり、かつては三層の天守が存在し、金箔瓦が使われていたようだが、寛永3年(1626)に落雷で残念ながら焼失してしまった。現存するのは大手門と三ノ門の2棟で、いずれも重要文化財に指定されており、当時の威容を示している。

 城を散策してみると、懐古園の入口にある三ノ門の存在感は流石で、城内の各石垣も野面積であり、戦国の威風を残す無骨さがあってかなり良い。また、展望台から見える千曲川の荒々しい風景も、地勢を感じられて良かった。さすがは中仙道の要衝である。一帯は、浅間山の火山灰土で、南九州同様、垂直に削り取られて切り立った谷筋を堀として多用しており、その堅牢さも目を引いた。

 散策でひとつ注意が必要なのは、線路を挟んだ東に大手門が存在するため、うっかり訪れるのを忘れそうになることだろうか。実際、城内から直接見えないだけに、自分も忘れかけたので、訪れる人は気をつけて欲しいポイントだ。

 

最終訪問日:2014/5/9

 

 

訪れた時は、びっくりするほどのゲリラ豪雨が急に降り出し、しばし足止めを喰らいました。

ただ、雨が上がってからは急速に天気が回復し、足元は悪いながら、良い散策の気候となって良かったです。

雨の影響もあったのか、見下ろした千曲川の激しい流れが、とても印象的でした。