Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

真田本城

 現地には真田氏本城とあるが、別に松尾城とも呼ばれ、上田城築城以前の真田氏の本拠城に推定されている。ただし、史実や遺構などで、本拠城が裏付けられているわけではない。

 この城を築城したのは、真田幸隆(幸綱)とされていたが、発掘調査によって、鎌倉時代に城砦として使われていた痕跡が見つかった。また、幸隆以前の真田氏が居していたともいう。

 真田氏は、一般に信濃海野平を領していた海野棟綱の子幸隆が、小県郡真田荘に住んで真田を称したのが始まりというが、棟綱の娘婿である真田頼昌の子という説もあるように、棟綱と幸隆の関係にはいろいろな説がある上、幸隆以前に真田を称していた海野氏の支族もおり、真田氏や幸隆の出自に関しては確たる定説が無い。

 これには、真田氏が近世大名として発展したために、草創期の家系がある程度創作された可能性が考えられる。徳川将軍家を始めとする、戦国時代に身を興した江戸期の大名のほとんどは、語れるような家系を持っておらず、真田氏もその例に漏れないということなのだろう。

 とは言え、海野氏とは、一族か家臣筋としてかはわからないが、何らかの関係があったのは間違いないようで、天文10年(1541)に武田信虎村上義清諏訪頼重が連合して海野氏を攻めた際は、海野氏と共に上野へと落ち延び、羽尾幸全や長野業政を頼ったとされている。

真田本城から真田市街の眺め

 その後、幸隆は信濃に戻り、最初は村上義清、次いで天文13年(1544)頃には信虎を追放した武田晴信に仕えた。そして、幸隆は晴信に信頼され、信濃先方衆として数々の合戦に参陣したほか、天文19年(1550)に晴信が戸石崩れと呼ばれる大敗を喫した戸石城を翌年には謀略で奪い、これを預けられて念願の旧領回復を成し遂げている。また、晴信が剃髪して信玄となった時、幸隆も出家して一徳斎と称したが、これはふたりの信頼関係が、どれだけ深かったかを物語るものだろう。

 真田氏は、この旧領回復後、幸隆の末期かその子信綱の時に、城の麓の丘陵に居館を造営し、さらに昌幸の代の天正11年(1583)には、城下を形成しやすい上田盆地上田城を築いて移っているが、その後も上州方面の守りとして、城の機能は維持されたようだ。

 廃城時期は不明だが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の結果、昌幸とその次男信繁(幸村)が蟄居となり、嫡男信之は幕府を慮って上田城を破却していることから、真田本城もこの時に破却されたのではないだろうか。

 城は、後背の山地から続く峰の突端最上部を本郭とし、北に向かって二ノ郭、三ノ郭と細長く延び、その先は断崖絶壁となって落ち込む要害で、城からは戸石城、矢沢城を望むことができる。

真田本城縄張図

 背後の台地とは高さ2mの土塁で隔絶しているが、この台地は広さがあり、純然たる軍事設備の本郭から三ノ郭までの細長さと比べて形も良く、もしかすると、居住空間のようなものか、搦手に対する備えの郭があったかもしれない。

 規模としては、それぞれの郭が幅約10m、長さ約30~40m程度とそれほど大きくないが、標高は高く、地方の小土豪が詰としたような、天然の地形を最大限利用した中世の標準的な山城だろう。領内の城の規模だけを見れば、村上氏から奪った戸石城の方が、規模も大きく防御力があったと見られる。

 北信濃屈指の規模を持つ戸石城は、幸隆ら海野一族が村上氏などの連合軍に敗れる天文10年(1541)以前には無かったか、その後に支配した義清によって大規模に拡張されたと考えられており、旧領回復後の幸隆は、真田本城ではなく戸石城に住していたという説もあるという。

 これが本当だとすれば、真田本城は幸隆が真田郷を失う前の本拠で、旧領を回復した後は戸石城を主城に、この城を支城として機能させていたのかもしれない。だが、周囲の支城の配置を考えると、対徳川戦で見せたような、防御力が標準的でしかない上田城を使った戦い方といい、幸村が大阪の陣で大阪城を出て四天王寺を軸に戦うのを考えていた事といい、真田家は伝統的に、圧倒的な防御力を持つ城を中心とした戦いよりも、防御力が標準的な複数の城をうまく絡めて戦うのが得意だったのだろう。そういう意味では、この城は戸石城よりも、真田氏の本拠として地勢的には相応しい城と言えるのかもしれない。

 

最終訪問日:2001/9/30

 

 

上野の岩櫃城方面から、鳥居峠を通って信濃に入ったところに真田本城があります。

そのルートで真田本城に行ったので、昌幸も信之もこの道を使って両城を行き来してたのかと思うと、妙に感慨深かったですね。