Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

北熊井城

 築城時期は不明だが、信濃守護小笠原氏の本拠であった松本平の南東端を抑える城として、一説にはその家臣村井氏が築いたと推測されている。また、別の説として、永正年間(1504-21)に熊井氏が築城したとも、嘉吉2年(1442)に大和織部正が築いたともいう。

 村井氏は、元々は官牧であった埴原牧の牧人から出発した豪族であったようで、この北熊井城の少し北にある村井一帯を領地としていた。

 建武元年(1334)に小笠原貞宗信濃守護に任命され、やがて信濃府中に進出すると、村井氏はこれに従い、家臣化したようだ。具体的には、貞和3年(1347)に松本から塩尻に掛けての6郷を指す近府春近領が貞宗に与えられており、この頃に臣従したのではないだろうか。

 ただ、村井氏は、村井城や埴原城をその主たる拠点としており、北熊井城がどのような背景から築かれたのかは、よく分からない。

 信濃は、伝統的に南朝勢力の強い国で、常に北朝方として進退した小笠原氏にとって、南朝方の主勢力のひとつでもあった諏訪氏とは争いがあり、熊井周辺でも至徳4年(1387)に府中熊井原で合戦が起こっている。史料には出てこないが、合戦などを踏まえると、諏訪から塩尻峠を越えて松本平へ出た場所に位置する北熊井城は、伝わるよりかなり早くから原型となる陣や砦があった可能性も考えられるだろう。

北熊井城本城虎口から本城全景

北熊井城本城北側の切岸と西一郭の間の空堀

 城が具体的に史料に登場するのは、戦国時代中頃で、武田家臣の駒井高白斎が書いた高白斎記の天文14年(1545)の項に、熊野井の城が自落したとあり、これが北熊井城のこととされる。

 当時の状況としては、武田晴信(信玄)が北伊那攻略に取り掛かっていた年で、高遠頼継の高遠城、藤沢頼親の福与城を降すのだが、頼親の義父として北伊那の龍ヶ崎城に援軍として出陣していた小笠原長時も同じく敗れて退いており、撃退された長時を追撃する形で示威行軍をした際の出来事であった。

 その後、天文21年(1552)に熊野井の城を鍬立したとあり、武田氏によって改修が施されたようだ。この2年前に小笠原氏は松本平から落去しており、府中の主城は信玄の命で林城から深志城へと変わっていた。この時期の改修は、すなわち、新たな支城網の構築においても、北熊井城が重要視されたという証なのだろう。

 ただ、その頃の情勢としては、伊那においても目ぼしい反抗勢力は既に無く、木曾氏はまだ従っていないとは言え、想定侵入路からは遠くなるのもあり、北熊井城の重要性は、それほど高くなかったのではないだろうか。

 また、天文年間の話として、同22年(1553)に熊井軍兵衛が城主として奮戦し、落城討死したとする話も伝わる。ただ、この話はやや年代がずれるため、信憑性は低いようだ。

北熊井城東門跡

北熊井城金池跡

 その後、武田氏の支配が安定したこともあって、城の名は長い間、史料に登場して来なくなる。

 時代が下った天正10年(1582)になると、武田氏は織田・徳川連合軍によって滅ぼされてしまうのだが、勝者の織田氏にも直後に本能寺の変が起こり、信濃は空白地と化す。

 この時、長時の子貞慶は、徳川家臣として松本平に入り、先に上杉家臣として深志城を掌握していた叔父の洞雪斎を追って深志城主となるのだが、股肱の臣である溝口貞泰に塩尻と熊野井を与えており、貞泰が北熊井城に在城した可能性は高そうだ。ただ、城についての詳細は不明で、廃城時期も不明である。

 城は、鉢伏山から盆地へと出る突端の丘陵を城地とした平山城だが、城内はあまり高低差の無い平坦な地形であることから、性格的には崖城に近く、比高は10mから、最も高い所で20m弱といったところだろう。

 東西に伸びる丘陵部を堀切で区画し、計7つの主な郭で成り立っており、本丸たる本城は方形で、南西部に虎口を開き、山側となる東には三重もの空堀を穿っていた。この本城から西に西一郭から西三郭、東に東一郭と東二郭、そして竹ノ花という削平地があり、これで7区画である。

北熊井城の解説と縄張図

北熊井城主郭部南側の空堀

 また、比較的標高差の少ない南側には、防御施設として城全体に渡って土塁と空堀が設けられていた。この辺りは、地形を意識した縄張というのが解りやすい。ちなみに、竹ノ花は館ノ鼻が転訛したものという。

 城へは、県道63号線から長野道の側道を少しだけ走り、城へ向かうのが一番分かり易いと思われ、やがて道の右手に巨大空母のような方形の塊が見えてくるが、それが城跡である。城地は、以前は畑地として開墾されていたと思われるが、現在は地元の人によって綺麗に整備されており、散策しやすかった。

 この城の見所は、なんと言っても巨大な空堀がそのまま幾筋も残っていることだろう。武田氏らしい土の城で、無名の城ながらその構造物の大きさに圧倒される城である。

 縄張を見てみると、最も比高差のある本丸と西一ノ郭あたりが最も古く、そこから西と東に縄張を拡張していったように思える。このような成り立ちを考えつつ、巨大な土塁を登り、深い堀底道を辿って行く散策が、非常に楽しい城だった。

 

最終訪問日:2018/5/30

 

 

思った以上にしっかりと整備されていた城で、遺構もはっきりしていて、とても良い城でした。

地元の方が手入れしてくれているんでしょうね。

感謝感謝です。

ただ、残念なことに、散策中に雨が降り出すという天候で、最後は走りながらの状態でしたので、もっとゆっくり回りたかったですね。