Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

有賀城

有賀城本丸の城址碑と解説板

 鎌倉時代に、諏訪神家一党三十三氏のひとつとして名前の挙がる諏訪一族の有賀氏が築いた山城で、承久年間(1219-22)の築城という。有賀は、アリガではなくアルガと読む。

 城が築かれたとされる前後、諏訪湖西岸の岡谷の辺りに有賀四郎という武将が居たとされ、築城者はこの人物なのかもしれない。また、承久3年(1221)の承久の乱前後の事であり、この後も有賀氏が代々居城していることから、新補地頭として新領地支配のために築かれたという可能性もある。いずれにせよ、諏訪と伊那谷を結ぶ有賀峠の街道筋を抑える役目があったのだろう。

 以降の有賀氏は、諏訪大社大祝の諏訪氏に従って活動したようで、南北朝時代には南朝に味方し、南北朝合一後は何かと守護勢力に対抗する国人勢力側にあったようだ。

 守護小笠原長秀と国人衆が争った応永7年(1400)の大塔合戦の際には、惣領諏訪氏は参陣せず、有賀美濃入道なる人物が諏訪諸氏を率いて参陣しており、諏訪氏を支える有力家臣であったことが判る。

副郭と呼ばれる有賀城の二ノ郭と通路側にある土塁

 戦国時代に入ると、諏訪家中で大祝を務める大祝氏と諏訪惣領家が争うようになり、各地に分立する諏訪一族を巻き込んでの内訌が繰り広げられていた。そんな中、惣領家に頼満が登場して大祝職と惣領を兼ねるようになり、下社大祝の金刺氏をも破って諏訪氏戦国大名化を果たす。

 だが、頼満の没後、当主となった嫡孫頼重の室の実家である甲斐武田家で当主信虎が追放され、その子晴信(信玄)が家督を継ぐと、晴信は信虎の融和方針を転換し、諏訪地方への進出を図るようになる。

 晴信は、高遠頼継や金刺氏と対諏訪氏で連合し、さらに有賀氏を含む諏訪西方衆も味方に加え、天文11年(1542)に諏訪氏を攻めた。その結果、頼重が甲斐に連行され、諏訪氏は実質的に滅んだ。

 その後、有賀氏は、天文15年(1546)に木曾氏に通じて誅されたとも、同17年(1548)に諏訪西方衆と共に小笠原長時に味方して武田氏の討伐を受けたともいうが、いずれにせよ、有賀城を失うこととなった。最後の城主は昌武とも泰時とも伝わるが、昌の字は晴信がよく与えていた字であり、諏訪氏から武田氏へ寝返った際に与えられたものだろうか。

有賀城三ノ郭と縁辺の土塁

 有賀氏滅亡後、伊那へ通じる有賀峠を扼する城として、有賀城には猛将原虎胤が入城し、更に同18年(1549)には諏訪一族で武田氏に与した千野靭負尉が城主となり、川中島の合戦に参陣するなどしている。

 その後の千野氏は、武田家臣となった諏訪氏の与力となっていたのか、天正10年(1582)の武田家滅亡後に諏訪頼忠の諏訪家再興に従ったのか、それとも別系の千野一門だったのか、頼忠の家臣に千野房清なる武将が見え、同年の家康との交渉で使者を務めているのだが、有賀城との関係はよく分からない。

 諏訪氏はこの後、家康に臣従して諏訪地方を安堵され、天正18年(1590)の家康の関東移封に従って武蔵、さらに上野へと移り、慶長6年(1601)に頼忠の子頼水が諏訪へ復帰した。これに伴い、房清には有賀一帯が宛がわれたが、有賀城自体は、城の規模や険しい山容、平地の少なさなどが居住には不向きで、日根野氏の高島城築城に伴う領内整理で、すでに廃城になっていた可能性が高そうだ。

 実際、房清も城の北麓に屋敷を構え、その場所が房清の官途から丹波屋敷という地名で残っている。ちなみに、城の北麓の江音寺は、房清の子なのか房清自身の別名なのか、高島藩初代家老千野頼房がその菩提寺として建立したものという。

有賀城の横堀とその先に見える堀切

 江音寺から有賀城への登山道をしばらく登ると、道は段郭が連続する城の脇へと続き、竪堀や空堀、土塁が現れてくる。これらの遺構を過ぎると、峰筋を断ち切る巨大な堀切が登場するが、これは本丸南側の堀で、尾根筋の途中にある本丸を、より標高が高い後方の峰筋から防御する役目があった。この堀切の上側にも段郭と埋もれかけた堀切があるが、規模はかなり小さくおまけ程度で、見下ろされる危険がある本丸後方には、急峻な山塊というのもあって、それほど注意を向けていないようだ。

 更に上へも尾根に沿って登る道があるのだが、これは鉄塔保守のための道らしく、10分ほど登っても遺構等は無かった。また、北東への尾根にも段郭があるが、こちらも規模はかなり小さいものである。

 本丸は、通常見られる峰筋の段郭よりも深く削って削平地を造ったという感じで、南側から南西側にかけての縁辺の土塁が非常に重厚であり、これは造成の際に削り残して土塁としたものらしい。また、2段の石垣が確認できるが、これは後世に造られた可能性があるらしく、実際に見た感じでは整い過ぎており、往時のものでないような感じだった。

有賀城の説明と縄張図

 この長方形の本丸の北には、空堀を挟んで大きく4段の段郭が続き、特に二ノ丸に相当する副郭では土塁などが明確に残っているが、この土塁には石垣の残骸のような岩が所々露出している。これが石垣の残骸であるならば、本丸の石段も往時に造られた可能性が高くなるのだが、見た目だけではなかなか判断が難しい。

 麓の江音寺に向かう道は細く、どこから入って行くのか迷うが、東側から高速の側道を目指す感じで県道16号線から入っていけば解り易いだろうか。江音寺からの登山道は、急峻ではあるが、それほど距離は無く、整備もされているので厳しいというほどではない。遺構がある場所も人の手が入って下草などが刈られており、全体的には非常に散策しやすい城だった。

 本丸からはある程度ではあるが視界も開け、諏訪湖の景色も眺めることができるので、散策して心地よい城である。

有賀城から諏訪湖と高島城を望む

 

最終訪問日:2012/10/12

 

 

諏訪湖とその周辺は、中央構造線の裂け目にできた湖と平野ですから、この有賀城のある辺りは元々が断層崖で、すごい急峻なんですよね。

標高はそこまであるわけではないで、どうすんねんこれ、とまではなりませんでしたがが、なかなか登り応えのあるお城でした。