Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松倉城 (越中)

 室町時代から戦国時代にかけての椎名氏の居城で、周辺に水尾城や升方城、北山城などの多くの支城を持つ中世山城である。越中三大山城のひとつ。

 松倉城の築城者は不明だが、南北朝時代越中守護であった井上普門俊清が在城したと史料に見え、延元3年(1338)に北朝方として新田勢と戦い、敗れて松倉城に撤退したとある。また、俊清はその後南朝へ寝返り、貞和4年(1347)に松倉城で兵を挙げ、北朝方に敗れた。

 一方、南北朝時代の早い時期から椎名氏が城主であったというのも、史料に見える。椎名家臣である武隈氏が記した「武隈家記」には、暦応4年(1341)に孫八入道胤明が尊氏の命で相模から入城したとあり、「太平記」に出てくる椎名孫八入道に比定されているという。また、同時期の武将として、越中五勇将に数えられた孫八郎頼胤という人物も見え、孫八郎という通称から孫八入道を頼胤とする説もある。

 このように、越中椎名氏の草創期は実像を掴みにくいが、もともとは坂東八平氏のひとつである千葉氏の流れを汲み、千葉常胤の弟胤光が千葉荘椎名郷を領して地名を称したのが椎名氏の最初で、越中に分かれた庶流が越中椎名氏という。越中との繋がりに関しては、胤光の曾孫義成が、承久3年(1221)の承久の乱の功で越中国松倉郷を賜ったのが最初とされる。

松倉城本丸最高部にある城址

松倉城解説板

 ただ、越中入部に関しては、前述のように胤明が南北朝時代に入部したという説があるほか、前述の義成の養子となっていた良明が三浦泰村の子であったため、宝治元年(1247)の宝治合戦での三浦一族滅亡後に越中に下ったという説もあるという。ちなみに、良明の孫が頼胤とされる。

 松倉城ではその後、応安2年(1369)に南朝方であった桃井直常が本拠として使い、敗れたとあり、椎名氏を城主とする年代とは齟齬が出てしまうが、これは椎名氏が直常を迎え入れていたのかもしれず、同様に前述の俊清もそのように迎え入れられる形で本拠としていたのかも知れない。事跡は混沌としているが、越中椎名氏が鎌倉時代から持っていた基盤の上に城が成り立っていたのは、間違いないようだ。

 南北朝時代は、明徳3年(1392)の南北朝合一で幕を下ろすのだが、越中守護畠山基国の郎従として椎名長胤の名が見ることから、この頃には椎名氏は畠山氏に従っていたようで、以後は家臣化し、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱後には新川郡の守護代となっている。

松倉城本丸二段目と三段目

松倉城本丸と二ノ丸の間の巨大な堀切

 戦国時代に入ると、越中守護代である遊佐氏、神保氏、椎名氏によって実質的に支配されるようになったが、神保慶宗は畠山氏からの独立を図り、守護畠山尚順は越後守護代であった長尾為景に救援を依頼した。

 為景は、永正16年(1519)に越中に侵入するのだが、この時の椎名家当主慶胤は、慶宗に与したため、神保氏と共に敗れ去っている。ただ、新たに越中守護代となった為景は、椎名一門の長常を又守護代に任じたため、椎名氏は長尾氏に臣従する形で勢力を維持することができた。

 天文年間(1532-55)初頭になると、長尾氏は為景の病没や国人の叛乱などで家中が乱れたため、神保長職が機とばかりに椎名領を侵し始め、神通川を越えて富山城を整備し、両家の対立が激しくなってくる。そして、永禄3年(1560)に長職は武田信玄の誘いで一向一揆と結び、松倉城へと攻め寄せたが、当主康胤は後の上杉謙信である長尾景虎に援軍を求めて撃退に成功し、富山城をも奪って長職を国外へ追った。

松倉城二ノ郭

縁辺に土塁の痕跡が残る松倉城三ノ郭

 だが、この勢力拡張によって康胤は独立を志向したのか、永禄11年(1568)に信玄の調略によって謙信から離反し、謙信によって城が翌年に攻囲されている。この時は、堅城らしく100日間に及ぶ包囲を耐え抜き、上杉軍を撤退させることに成功したのだが、上杉軍の越中侵攻は断続的に続き、元亀2年(1571)年には上杉勢によって落城したようだ。

 その後、翌同3年(1572)には、信玄の上洛に呼応して康胤が一向一揆と共に挙兵し、一旦は松倉城に復帰したと見られるが、翌年正月に再び開城して城を失っている。

 松倉城を奪った謙信は、河田長親松倉城に入れて東越中の支配拠点としたが、天正6年(1578)の謙信没後、動揺する越中を支えた河田長親も3年後に病没してしまい、その後は楠川将綱や黒金景信など複数の武将が城将として置かれたようだ。

 天正10年(1582)に織田軍が支城の魚津城を攻めた時には、須田満親が松倉城越中方面の総指揮を執っていたが、魚津城包囲の際には、満親自身も松倉城を攻囲されて救援に出ることができず、魚津城が落城する直前に休戦開城が成立したようで、越後へ撤退している。

こちらも土塁の痕跡がある松倉城四ノ郭

松倉城の立体模型

 一方の魚津城は、諸説あるのだが、信長の命でこの休戦開城が破棄されたようで、開城の完了していなかった魚津城は総攻撃を受け、玉砕落城してしまう結果となった。ただ、この魚津城落城は本能寺の変の翌日で、信長横死によって織田軍が撤退すると再び上杉氏が一帯の城を奪うこととなる。

 その翌年、今度は越中統一を図る佐々成政が再び松倉城を奪取したが、天正13年(1585)には秀吉による討伐に降伏し、後に城は前田利家の嫡男利長が支配した。しかし、すでに時代は戦国山城を欲せず、松倉城は、物流や都市の拠点となり得る魚津城に主役を奪われて存在価値が薄れ、城自体は元和元年(1615)の一国一城令まで存続はしていたものの、魚津城代を務めた青山吉次の家臣が城番となっていたに過ぎず、重要視はされていなかったという。

 城は、南北朝時代から改修が繰り返された典型的な中世山城で、標高約431mの松倉山山頂付近に、南西から北東に向かって八幡堂という物見的な小郭から高低差の少ない主郭部4郭が並ぶ連郭式の城で、主郭の4郭にはそれぞれ複数の段があり、本丸から三ノ郭までが特に広大な削平地を持つ。また、これらの郭間には深い堀切が穿たれており、非常に見応えがあった。このほか、北西中腹に大見城平という家臣の居住区画、北東の狼煙台、その下に御屋敷跡という削平地があり、非常に城域の広い城である。

 

最終訪問日:2017/5/21

 

 

16年前に訪れた時は、道が工事で封鎖されており、迂回路を散々探した挙句に登城を断念したという思い出のある城です。

改めて城を訪れた日は、たまたま戦国のろし祭というのが開催されていて、バイクを止める場所に困るほどでしたが、祭りは北東中腹の御屋敷跡という広い場所で行われていたので、主郭部は訪れる人はそう多くなく、ゆったりと散策できました。

喧騒と静寂の対比が、より古城の雰囲気を際立たせていましたね。

年に1度お祭りがあるという事もあってか、城内も綺麗に整備されていて、地元の方々に大事にされている城というのを非常に感じました。