Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

宮崎城 (越中)

宮崎城説明板

 親不知から市振、境にかけて、越後と越中の国境付近は断崖が続くが、その名の通り、越中側の国境である境という地を見下ろす場所に城はある。

 境にある境川では、越後勢と越中勢の合戦が幾度もあったが、宮崎城は越中平野部への玄関口を押さえる峻険な山城で、越中側勢力の防衛拠点として、はたまた越後側勢力の越中侵入拠点として、重要視された。

 古くは、寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦いで義仲側に味方した横山太郎長康が居していたと史料に残っており、義仲と共にこの城を築いたのも長康である。同年に、後白河法皇の皇子以仁王の、その第一皇子である北陸の宮を奉戴するための御所として築かれたのが最初といい、一説に築城時期はその前年ともいう。

 その後、宮崎氏は、承久3年(1221)の承久の乱後鳥羽上皇側に与したため、討伐されて滅んだといい、南北朝時代には、宮崎城は北陸を転戦した新田氏などの戦略拠点のひとつとなり、北朝から南朝に寝返った越中守護井上普門俊清が、延文4年(1359)に敗れて宮崎城に退いたことなどが史料に見える。

 この俊清や、後に越中南朝方の最強硬派として活動した桃井直常は、松倉城を本拠としていたことから、松倉城の支城として、宮崎城は東の境の城の機能を果たしていたかもしれない。

 室町時代から戦国時代初頭にかけては、越中国新川郡の守護代であった椎名氏の支配下にあったと思われるが、守護畠山尚順に対して神保慶宗と椎名慶胤が叛いた際には、尚順の依頼で永正16年(1519)に越後守護代長尾為景越中に侵攻しており、この時に宮崎城は落城したと推測される。

 この乱の平定後、為景は越中守護代に任命されるのだが、その又守護代として椎名長常が用いられたことで、椎名氏自体は命脈を保った。ただ、長尾氏の従属下という立場であり、宮崎城は連絡拠点として長尾氏側が保持したのではないだろうか。魚津城や松倉城に近い天神山城が、天文23年(1554)に長尾氏側によって築かれたとされていることから、椎名氏の支援及び監視の機能として、越中国内に宮崎城から繋がる連絡網が築かれていた可能性が高そうだ。

 その後、椎名康胤は、永禄11年(1568)から数度に渡り、為景の子で上杉氏の名跡を継いだ景虎(謙信)に叛旗を翻し、滅ぼされた。こうして、越中を直接の支配下に収めた上杉氏は、宮崎城を越中への中継拠点として使っており、天正10年(1582)に織田軍が魚津城や松倉城を囲んだ際も、謙信の跡を継いでいた景勝率いる後詰の先陣が、まずこの宮崎城に入っている。

 この魚津城攻防戦の決着がついたのは本能寺の変の翌日で、信長横死の報が伝わると、織田軍は攻め落とした魚津城などを放棄して退却したが、翌年には越中統一を進める佐々成政が東進し、再び魚津城を奪取した。そして、そのままの勢いで成政は宮崎城まで落とし、丹羽権平を守将として入れたが、さらにその翌年には景勝が奪い返すなど、宮崎城の争奪が繰り広げられ、越中前田利長に与えられることによって、ようやく支配体制が安定したという。

 前田時代には、前田家臣である高畠氏や小塚氏が城に配されたが、その後、江戸時代初期に境関所の整備によって廃城になったと伝わっている。境関所の整備時期は、桃山時代から江戸時代初期まで幅があるものの、領境の重要性から、元和元年(1615)の一国一城令辺りまでは、城も並行して維持されていた可能性が高い。

 城は、横山氏が居城としていた築城間もない頃は、標高約250mという天険を恃みとした小規模な中世山城だったようだが、戦国時代に拡張され、前田氏時代に現在の形となった。櫓台を持つ本丸から西へ階段状に二ノ丸、三ノ丸と総石垣の郭が続き、本丸の南には堀切で区切った外郭があって、20間×30間ほどの広さと櫓台を持っている。山上の城としてはなかなかの規模であり、国境防備の性格が色濃く出ている城だろう。

 現在の城跡は、公園として整備されており、国道から城までは車道が通っているため、峻険な山城ではあるものの、城へは容易に辿り着くことが可能だ。城からの、特に天守台からの眺めは、日本海が一望できて非常に素晴らしく、当時の監視の様子を想像する事ができる。

宮崎城から監視対象だった日本海沿岸の眺め

 

最終訪問日:2001/9/17

 

 

峻険な山にあるお城ですが、簡単にお城まで登ることができて、びっくりしました。

そして、山の上ながら、かなり広いんですよね。

眼下にはヒスイ海岸の美しい景色が広がっていて、それも良かったです。