Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

天神山城 (越中)

通信鉄塔が建つ天神山城本丸の削平地

 標高163mの天神山に築かれた山城で、萩城ともいう。

 史料に初めて見えるのは元亀3年(1572)だが、一説には、まだ長尾景虎と名乗っていた頃の上杉謙信が天文23年(1554)に築城したともいい、松倉城との近さから、長尾氏に従属していた椎名氏を後援する立地というのがありありと見える。ただ、別の説として、松倉城の支城として椎名氏が築いたという説もあるようだ。

 後に、椎名康胤が上杉氏から離反すると、上杉氏にとっては越中における攻略拠点となり、椎名氏の名跡を継ぐべく椎名小四郎を名乗った長尾景直が置かれている。そして、さらに領地が西へ広がるにつれ、重要な中継拠点になって行ったようだ。

 天正10年(1582)の織田軍の侵攻による魚津城の戦いの際には、後詰めで出陣してきた上杉景勝がこの城に在城しているのだが、この頃の魚津城は、すでに城内まで侵入を許した末期的状況であった。その上、信濃や上野からも織田軍が越後に侵攻するという情報があり、決死の覚悟で出陣してきた景勝も帰国せざるを得なくなったため、松倉城を守っていた須田満親と合流し、5月末には陣を畳んで帰国している。

 これにより、中継拠点としての天神山城も放棄されたと推測され、本能寺の変の翌日にあたる6月3日、約3ヶ月の籠城むなしく、後詰を失って孤立した魚津城は陥落してしまった。そして、景勝の撤退後に天神山城は織田軍が接収したと思われるのだが、本能寺の変によって織田軍が撤退したため、再び上杉軍の手に戻ったと思われる。

 その後、佐々成政が上杉軍の逆襲に耐え、やがて上杉軍を越後に押し戻して越中を制したのだが、天正13年(1585)の富山の役の際、秀吉の遠征軍に呼応した上杉勢が再び城を奪回したと見られ、成政が降伏して新川郡が安堵された後も、上杉方の城番が詰めていたという。

 成政が、天正15年(1587)の九州征伐後に肥後を与えられると、越中前田利長の領国となり、その家臣青山吉次・長正父子が魚津城と共に城代として統治した。ただ、いつ頃まで城が使用されていたのかは定かではない。

 現在の城跡には、2段の削平地の付近に土塁跡と見られる土盛りなどがあったが、道路や鉄塔ができているためか、案内板にあった帯郭や空堀、竪堀などはよく判らなかった。往時は規模がかなり拡張されていたようで、一説に金太郎温泉付近まで城地が拡げられていたともいわれる。

 天神山の頂上付近からは、2世紀末の倭国大乱に関係すると見られる弥生時代の遺物も発見される事から、その当時も城砦として使用されたと考えられ、地形上の立地の重要さは時代を経ても変わってなかったのだろう。現在は、中腹に魚津市の歴史民俗資料館が建てられているほか、本丸跡には前述のように通信鉄塔が建っており、残念ながら史跡の雰囲気がやや乏しい城跡となっている。

 

最終訪問日:2001/9/17

 

 

一通り散策してみたんですが、2段の削平地以外は、なかなか明確な遺構というのが無かったですね。

良くも悪くも公園化されているので、気軽に寄れる城ではあります。