Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

新府城

新府城本丸に祀られた武田勝頼の廟祠と家臣の霊柱

 正式には、新府中韮崎城という。

 甲斐を治めた武田信玄の死後、実質的に跡を継いだ子勝頼は、高名な父の名声を打ち消すように、天正2年(1574)に信玄が落とせなかった高天神城を攻略し、武名を轟かせた。しかし、翌年の三河侵攻の際、無謀とも言える兵力差を押して長篠城外の設楽ヶ原で織田・徳川連合軍と決戦に及び、多大な犠牲を出して敗れてしまう。

 これにより、家臣団や領国経営に動揺が走り、勝頼は家中の引き締めを図るが、その過程で、重臣穴山信君が織田・徳川連合軍の侵攻に備えてこの地への築城を進言したといわれる。

 また、祖父信虎や父信玄が本拠とした躑躅ヶ崎館は、丘陵地にあり、城下を含む拠点運営という点では発展が難しく、新府城は、大きな城下町を包含する近世的な拠点を求めたという時代的な背景もあったようだ。

新府城の本丸手前にある蔀の構えは本丸の目隠しの機能があった

 築城は、天正9年(1581)から始まり、真田昌幸が奉行に命じられ、同年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へと移った。しかし、翌年2月には、木曾義昌が勝頼の施策への不満から織田方に寝返り、勝頼自ら討伐軍を率いて木曾谷へと向かったものの、織田氏の支援を得た義昌に鳥居峠で敗れてしまう。

 さらに信長は、この義昌支援を契機として織田軍を信濃へ侵攻させ、織田氏と同盟を結ぶ徳川氏と北条氏も駿河へと同時侵攻を始めたため、勝頼は有効な対抗策を打てぬまま新府城へと撤退した。

 そして、3月に入ると、河内を領する一門筆頭の信君が子信治の武田氏惣領の継承を条件として家康に通じ、伊那の拠点であった高遠城も、弟仁科盛信の奮戦空しく落城したため、勝頼は新府城を放棄して落ちることを決意し、昌幸の岩櫃城小山田信茂岩殿山城という選択肢から、岩殿山城を選んだ。こうして、新府城は未完成のまま火を放たれて放棄されたのである。

新府城二ノ丸の土塁

 その後、信茂の裏切りによって岩殿山城へ辿り着けなかった勝頼は、天目山で自刃に追い込まれ、武田氏滅亡後の甲斐は川尻秀隆に与えられた。だが、支配体制構築前の6月に本能寺の変で信長が横死したため、武田遺臣の蜂起で討たれてしまう。しかも、本能寺の変の際に家康と別れて堺から帰還を図った信君も落ち武者狩りに遭ったため、甲斐は完全に無主の地となった。これにより、天正壬午の乱と呼ばれる徳川氏と北条氏による争奪戦が始まるのである。

 この一連の戦いの中で、新府城甲斐府中を掌握した徳川軍の前線基地として機能し、後には家康自ら入城して北条軍と対峙した。この時、家康軍の兵力は8千で、それを収容するだけの巨城であったことが解る。

 一方、対する北条軍は4万以上の軍勢を擁し、いかに戦上手の家康と言えども絶望的な兵力差であった。だが、北条軍の補給線となる小諸城が徳川勢の手に落ち、その大兵力が逆に仇となって北条軍が立ち枯れの危機に瀕したことにより、両者の間で和睦が成立し、甲信二州は家康の切り取り次第となる。こうして、甲斐は家康の領国となり、躑躅ヶ崎館が支配拠点として使われたため、以後、新府城が使われることはなかった。

新府城解説板

 城は、八ヶ岳の山体崩壊で流れ出た韮崎岩屑流という岩の層の上にあり、釜無川と塩川が削った崖の間の幅2kmほどの台地に築かれている。城の南西は七里岩という釜無川が削った崖で、天然の地形を防御に用いているのだが、この名は崖が7里に渡って続くことからという。

 台地の頂上部の本丸は広く、東西90m、南北120mの規模を持ち、その西南に本丸の4分の1ほどの二ノ丸と馬出、本丸の南には東西の三ノ丸が設けられ、その南に甲州流築城術特有の丸馬出を持つ大手が開かれていた。反対の北側には、手薄な防御力を補うために水堀が穿たれ、その中には、出構という射撃堡塁が角のように伸びて火縄銃による銃撃戦に対応した造りとなっており、戦国後期の築城らしい構造だ。

 県道17号線から林道を登って行くと、まず細長い通路のような平坦な地形が現れるが、これは本丸東側の帯郭である。帯郭を過ぎてしばらく行くと、南大手の案内があり、その先に大手望楼台と三日月堀を擁す大手門、丸馬出の土塁が明確に残っていた。この大手から道を挟んで反対側が東西の三ノ丸で、大きな郭であり、周辺はかなり視界が広い。

新府城南大手門

 ここから更に道を登っていくと、馬出と二ノ丸に出るが、道がかつての登城道を無視して造られているため、構造を把握するのに手間取った。とは言え、土塁などは明確に残っており、縄張図と丹念に合わせて見てみると、古城の雰囲気が漂う見所であることが理解できる。

 二ノ丸を少し上に登ると、蔀の構という目隠しを経て本丸に入るが、本丸はかなりの広さで、さすがに戦国時代も末期の築城らしく、近世城郭の萌芽が見て取れた。本丸には、藤武神社と武田勝頼やその家臣らの霊祠があるが、祠の後方はやや盛り上がっており、往時には櫓台だったのかもしれない。ここからの眺望は、支城だったという能見城周辺と、天然の要害として防御力が計算されていた七里岩と釜無川までが確認でき、場内で一番眺望が良かった。

新府城本丸の藤武神社はさらに1段高くなっている

 

最終訪問日:2012/10/13

 

 

新府城は、偉大過ぎる父を持った勝頼最後の夢といったところでしょうか。

規模は大きく、散策し甲斐のある城でしたが、何とはなく、どこか切なさを感じる城でしたね。