Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

防己尾城

 現地にひらがなで「つづらお」城跡とあったが、近世には「つづらを」と書いたようだ。また、城が機能した戦国時代には、吉岡城などと呼ばれた。ちなみに、防已(ボウイ)というのが漢方でのつづらの事で、城の字は、已がやがて己に誤って記されたものと思われる。

 城は、湖山池に突き出た10数m程度の小山にあり、吉岡定勝が築いたという。具体的な築城年代としては、定勝が3年間在城したということから、秀吉の鳥取城攻めがあった天正9年(1581)より逆算して同6年(1578)頃と考えられている。

 しかし、鳥取市によれば、「草刈文書」の中に防己尾城主妹尾右京亮の名があり、天文13年(1544)頃には城が既に存在していたようだ。恐らく、以前からあった城を定勝が改修して本拠にしたということだろう。

本丸に建つ防己尾城址

 吉岡氏は、湖山池の南西岸一帯に勢力を持っていた国人領主で、詳しい出自は不明だが、南北朝時代に山名氏が山陰で勢力を拡大すると、その家臣となっていたようだ。

 その最初期の本拠は、吉岡温泉近くの六反田の丸山城で、室町時代末期に吉岡春斎入道が築城したとされるが、この春斎は定勝の父であり、最初期の城といっても比較的歴史が浅い。それ以前の吉岡氏の事跡は不詳で、恐らくは今の吉岡温泉一帯の集落から身を興した土豪なのだろう。もしかすると、吉岡温泉開湯の伝説に出てくる、平安時代の葦岡(よしおか)長者の子孫なのかもしれない。

 その後、吉岡氏の本城は丸山城から吉岡温泉南東の蓑上山へ移され、さらに定勝がこの防己尾城へと移したが、防己尾城が有名になるのは、前述の秀吉による因幡侵攻の際の吉岡合戦によってである。

防己尾城本丸

 城主であった定勝は、この因幡侵攻の際には毛利氏に属して籠城し、鳥取城の支城としての役割を担っていたが、支城潰しを図って攻め寄せる秀吉軍に対して奇襲を行い、3度に渡って撃退したという。また、2度目の撃退の際、定勝の弟右近が、秀吉の千生瓢箪の馬印を奪ったのは有名な話である。

 だが、城兵の士気をの高さを見た秀吉は、力攻めをやめ、亀井茲矩に命じて城を包囲し、鳥取城と同様に兵糧攻めにして落城させた。落城後、湖山池一帯に勢力を培ってきた吉岡一族は落ち延びて帰農し、城も廃城になったという。

 城の構造は、湖山池に突き出している半島の根元を堀切で区切り、その先にある峰の頂上を削平して主郭が置かれている。北側の小山が本丸で、続く峰に二ノ丸、谷を挟んだ南東側の小山に三ノ丸があり、北側の突端には出丸と船着場があった。ただ、北の小山全体を本丸、南東側の小山を二ノ丸とする場合もあるようだ。

防己尾城解説板

 前述のように比高10数mの丘陵程度と低く、規模も中小領主の城としては標準的な大きさであることから、三方を湖に囲まれているという立地が、この城の最大の防御力であったと思われる。それに加え、船着場があったことから、吉岡氏は小さいながらも水軍を持っていたはずで、戦時はそれを活用して湖面から城へは近付けさせず、さらには地形を知り尽くした陸側のゲリラ戦法とうまく連携し、秀吉軍に立ち向かったのだろう。

 また、湖山池南西岸を勢力圏としていたことや、水軍の存在から想像するに、平時は湖山池や千代川へと通じる水上交通を掌握し、水運によって収益を上げ、それが吉岡氏の勢力の一端となっていたのではないだろうか。

本丸から谷筋を挟んだ向かいにある防己尾城三ノ丸は2段構成となっていた

 城跡を実際に歩いてみると、本丸と三ノ丸の峰筋が、人が腕を伸ばすように存在しており、その間の谷筋が、傾斜を持ちつつも綺麗な平地になっていることが解る。

 中世的な城郭では、郭がある峰筋の間の谷筋に居館を置く事が多く、この防己尾城でも地形的にそのような雰囲気があったが、現地では居館に関しては触れられてはいなかった。谷筋は公園造成の際に平地化したものかもしれず、また、築城時期が居住空間を城と一体化させていた戦国末期で、主郭部にも十分な削平地があることから、居住空間を主郭部に組み入れていた可能性も高いのだが、あまりに典型的な地形ということもあり、気になるところだ。

防己尾城三ノ丸には堀切が明確に残っていた

 現在の城跡は、公園として整備され、本丸跡には大きな展望台が設置されており、湖山池と鳥取市街を一望できる眺めは清々しい。公園として整備されていると言っても、本丸の展望台部分を除けば、郭間の武者走りのような地形や小さな削平地などといった旧態を比較的残しており、木々に埋もれる古城としての雰囲気は保たれている。

 一方、谷筋を挟んだ三ノ丸は、城域の中で最も整備されており、芝生が敷かれ、東屋などもあって、そのまま遠足やピクニックも可能な区画となっていた。三ノ丸周辺の堀切などの遺構もしっかりと残されており、草や木々が刈られているということもあって、こちらの方が遺構は明確で解り易いだろうか。標高も高くなく、綺麗に整備されてもいる良い城で、お城に興味が無い人でも十分に散策を楽しめる城となっている。

 

最終訪問日:2013/5/12

 

 

地図で見ると、これほど城を築くのに適した地形はないんじゃないかと思うほどですが、お城にそれほど興味が無い人は、親水公園というイメージが強いでしょうね。

湖山池は、池と言いつつも湖の大きさで、展望台からの景色と吹き付ける風は、新緑の爽やかな季節というのもあって、時間を忘れるほど気持ち良かったです。