地図には三笠山城とあり、三笠城とも呼ばれているが、現地の案内板等では下横田城の名前が主に出てくるため、下横田城とした。出雲では、尼子十旗の牛尾氏の三笠城、月山富田城の出城である尼子十砦の三笠山城というのがあり、なかなかややこしい。
この付近一帯は、古くは横田荘と呼ばれ、平安時代の史料に岩清水八幡宮の荘園として登場する。鎌倉時代に入ると、執権北条時宗の異母兄時輔が領するなど、得宗家領になったが、曲折を経て再び岩清水八幡宮領となり、やがて南北朝時代には上皇の料所となったようだ。
その頃、出雲守護職は、京極氏と山名氏が争いながら歴任しており、南北朝時代終盤は、山名義幸がその職に就いていた。
山名氏は、室町幕府草創の功臣ながら、南北朝双方に所属を変えつつ山陰地方を切り取って勢力を拡大し、最盛期には一族で全66ヶ国の内、11ヶ国の守護となり、六分一殿と呼ばれたという。だが、幕府権力を強化すべく大大名の勢力削減を目指した3代将軍義満は、山名家中の対立を利用して明徳元年(1390)に山名時熙と氏之の討伐令を出し、同族の氏清と、義幸から出雲守護職を継いだ満幸に討たせた。
この討伐戦は、翌2年(1391)に終結するのだが、今度は、氏清と満幸の権力が大きくなり過ぎたため、後円融上皇の御料所であるこの横田荘の押領を理由のひとつとして、挑発するように義満は満幸の出雲守護職を剥奪する。これをきっかけにして、氏清と満幸が同年末に叛乱へと踏み切ったのが、明徳の乱と呼ばれる叛乱なのだが、この大事件で横田荘は重要な要素となった。
下横田城が築城されたのは、上記の明徳の乱の直前である。満幸が、横田荘押領のために家臣である石原氏を派遣し、その石原氏が築城したのがこの城という。
石原氏は、現地の説明板には、本国丹波国より入部したとあったが、丹波は氏清の領国で、満幸が守護だったのは丹後であり、資料によっては石原氏は丹後から来たともあるため、丹後出身と見るのが正しいかもしれない。また一説に、山名氏の横田荘進出は、義幸の父師義の頃からともいわれ、横田荘の押領は、義幸が守護の時代から約10年に渡ったともいう。
石原氏は、山名氏の代官として忠実に職務をこなし、満幸の押領の意図を汲んで上皇の御教書を持った使者を追い返したといい、言わば明徳の乱の発端となる事件を起こしたとも言える。だが、当然の如く、満幸が敗れると石原氏は後ろ楯を失い、同じく山名氏に従っていた近隣の地頭三沢氏を頼って横田から退去した。
その後、三沢氏が横田荘へ進出し、院宣を受けて御料所の管理をしたが、石原氏は三沢氏の家臣としてその代官となり、半世紀ほど経って再びこの下横田城に在城したという。
城は、古市という場所にあるが、古市というのは新に対しての古で、たいていは近くに今市などの地名があることが多い。横田の場合は、今の横田市街の北に三沢氏によって築かれた藤ヶ瀬城の城下町が新しい市にあたり、具体的には大市や六日市という地名が相当するだろうか。
藤ヶ瀬城築城は永正6年(1509)だが、下横田城は街道筋の城であるが故、その頃にはまだ存在していたと推測できる。恐らくは、位置的に三沢氏の新たな本拠となった藤ヶ瀬城の南を監視する支城として、重要視されたのではないだろうか。
藤ヶ瀬城主時代の三沢氏は、出雲国人らしく独立的で、出雲守護代からのし上がった尼子経久によって度々攻撃されて服属してはいるが、天文10年(1541)から翌年にかけての大内義隆による月山富田城攻めの時には、尼子氏から大内氏に転じて攻城戦に参加しながら、大内氏が不利と見るや尼子氏に再帰属するなどしている。
だが、その直後には、その反復を警戒した尼子氏から横田荘の代官職を取り上げられてしまい、尼子氏は横田荘に5人の代官を派遣したという。
その頃、史料には下横田城が登場せず、これ以降もどうなっていたかは不明なのだが、代官の支配拠点のひとつとして使われた可能性は考えられる。ただ、発掘調査が行われなければ、どの時代まで使用されていたか、廃城時期も判らないのというのが実情だろう。
横田郷土資料館駐車場の案内板に従ってJR線を渡ると、新宮神社という宮がある。この神社の右手奥からは鬱蒼とした登山道があり、左手からは憩の広場へ通じる道があるが、どちらからでも最終的には三笠山頂の城跡へと着く。
頂上は、直径10mほどの楕円形に近い削平地で、稲荷社が建っていた。この本丸の直下には踊り場のような小郭があり、その下の憩の広場の場所も郭跡だろう。この広場から北側の縄久利碑へと続く道には、2条の堀切が確認できたほか、案内板によれば、道沿いに2つの郭があるはずだが、残念ながら薮化していて郭のほうは確認できなかった。
道を進んだ先には、縄久利碑がある場所に出るが、縄久利碑がポツンとあるだけなのに対して削平面積が広いため、ここも間違いなく郭跡と思われ、縄久利碑が郭跡を利用して後から建立されたと思われる。縄久利碑については、案内板に載っている割に説明の類が一切無く、碑の由来などは全く分からないのだが、これは出雲にある縄久利神社と関係があるのだろうか。
最終訪問日:2011/10/23
訪れた時は、残念ながら雨が降ったりやんだりの悪天候で、しかも時間の都合もあり、やや足早で散策することなりましたが、お城の規模も小さく、麓の郷土資料館と合わせて、ちょうど良い散策の時間となりました。
城跡周辺には、広がる田園風景に川筋とローカル鉄道の木次線がアクセントとなっていて、バランス良く寂びた雰囲気があり、ブラブラしているだけで心地良さを与えてくれます。
城跡としては、見るべきところが少ないかもしれませんが、周辺を含めて、訪れて良かったと思える城でした。