伯耆の国人である南条氏が居城とした城。
南条氏は、近江源氏佐々木氏の流れである出雲守護塩冶高貞の子高秀を始祖とする説が有力で、「羽衣石南条記」では、暦応4年(1341)に高貞が京都から出奔して追討を受け、自害した際、子の高秀が越前国南条郡に逃れ、後に南条貞宗を称したとする。
ただ、出自には他説もあり、「高師直施行状案」などには貞宗の祖先と推測される南条又五郎の名が見られることから、南北朝時代初期にはすでに、伯耆国内に相応の勢力を持つ南条氏がいたのは間違いないようだ。
このように、南北朝時代辺りの南条氏の動向は詳らかではなく、又五郎と貞宗の関係や、その出自を含めて混沌としているが、伝えられるところでは、貞宗が足利尊氏・義詮父子に仕えて功を挙げ、伯耆に所領を得て貞治5年(1366)にこの城を築いたという。そして、守護大名山名氏配下の有力国人に成長していった。
応仁元年(1467)から足掛け11年に渡る応仁の乱の後、南条氏は守護職山名氏の衰退に乗じて在地支配を拡大し、やがて山名氏を上回るほどの勢力を持つようになったという。そして、一説には、世にいう大永の五月崩れによって他の伯耆諸城と共に大永4年(1524)に陥落し、当主宗勝は因幡に逃れ、尼子経久の次男国久が入城したとされる。
だが、尼子氏による大永の五月崩れという電撃戦は、近年では段階的進出であったという説が有力で、尼子氏は、実際には守護の山名氏に介入しながら伯耆へ進出していったようだ。この過程で、宗勝は当初、山名氏側から転じて尼子氏に通じたものの、何らかの理由で後に離反し、羽衣石城を追われたということらしい。

この離反がいつだったかというのは不明で、天文9年(1540)から翌年年初にかけて行われた尼子氏の吉田郡山城攻めの際、その隙を衝いて山名氏の後援で羽衣石城奪還の兵を挙げたものの敗退したという説と、郡山城の攻撃に参加したという説があり、従来は奪還失敗の説が主だった。奪還失敗説に従うと、この頃には尼子氏から離反していたということになるが、史料の信用性という問題もあり、はっきりとしない。
確実なのは、同11年(1542)から翌年にかけての大内氏の月山富田城攻めに大内方として参陣しており、この頃の離反が確実なことである。
また、天文15年(1546)には、山名家臣武田常信と共に橋津川で尼子一族の新宮党と戦い、尼子豊久を討ち取ったものの、その父国久の奮戦によって敗北を喫したと伝わるが、一方で別の史料には、同年に南条国清なる武将が羽衣石城におり、尼子方から離反したということも記されており、動向に共通点が見られない。ちなみに、宗勝というのは号で、諱は国清や元清とされることから、これは宗勝本人の動向である。
これらから読めるのは、一貫して反尼子として戦ったと伝わる姿と、中国地方の各国人と同じく両大国の間で揺れ動いていた様子の、二面性が垣間見える。軍記物の主役としての南条氏と、史実としての南条氏ということなのだろう。
その後、尼子氏に代わって毛利氏が台頭してくると、宗勝は、その援助を受けて永禄5年(1562)にようやく羽衣石城を奪回し、以降は山陰を統括した吉川元春の指揮下に入った。しかし、織田氏の勢力が山陰に及んでくると、宗勝の子元続は毛利方から織田方へと寝返っている。これに関して、宗勝が毛利家臣杉原盛重の居城尾高城からの帰途に急死し、父が暗殺されたとして元続は織田氏へ奔ったという説もあるが、どうやら信憑性は高くないようだ。

織田氏と毛利氏の対立が深まる中、当然のことながら、寝返った元続を毛利氏が放置するわけもなく、天正7年(1579)には元春の猛攻によって羽衣石城は落城し、元続は落ち延びている。だが、元続は後に城を奪い返し、同9年(1581)の秀吉による鳥取城攻めの際には、鳥取城救援に向かう元春を足止めする機能を果たした。そして、鳥取城陥落後は、南条氏の後詰として秀吉が元春と対峙したが、秀吉は背水の陣を敷いた元春と戦うのを避け、両軍共に撤退している。
この後、どうやら翌10年(1582)に元春が再び侵攻し、城は落城したようだが、本能寺の変の際に秀吉と毛利氏が和睦したことで後に領境が定められ、改めて元続に羽衣石城が与えられた。しかし、南条氏の支配は長くは続かず、元続の子元忠は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して改易となり、城も廃城となった。
羽衣石城へは、中腹まで舗装された道があり、駐車場からの登山道も整備されていて登りやすいが、中世的な山城でかなり険しい。道の途中には、巨岩を石垣の代わりとして用いた跡が所々に見られるほか、山頂部分は削平地が広く、近世の築城術の影響が感じられる。
また、山の名前の由来ともなった、天女伝説で天女が羽衣を掛けた天女石という岩があるが、そこにも石が積まれており、往時には櫓が建っていたのかもしれない。頂上の本丸には、かつては、南条氏の子孫が建てたという鉄骨の模擬天守があったらしいが、現在は、平成2年(1990)に建て替えられた模擬天守と展望台があり、眺望が非常に良い城跡となっている。
最終訪問日:2001/10/26
駐車場や登山道が整備された良い城でした。
道中の道の険しさと、頂上部の視界の広がり方に、すごくギャップがありますね。
天女石にも石垣が積まれていたは、伝承なんて二の次という、戦時のリアリズムを感じました。