Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

吹屋銅山 (吉岡銅山)

吹屋銅山笹畝坑道入口

 吹屋鉱山や吉岡銅山ともいい、パンフレットには吉岡銅山の方が正式な名称であるように書かれてあったが、現地の案内板などは吹屋銅山となっていた。

 最初の発見は大同2年(807)とあるが、この初期の頃は、地表に露出した鉱脈から採掘する露天掘りだったはずである。時代が下って戦国時代になると、全国的にそうだが、直接の財源となる鉱山は戦国大名が盛んに開発し、争奪の的にもなった。この吹屋銅山も、山陰の覇者尼子氏と西から興った毛利氏との間で、争奪が繰り返されたという。

 江戸時代に入ると、その初期は成羽藩の支配であったが、他の鉱山と同様にほとんどの期間は幕府が直轄としていた。元禄年間(1688-1704)には、今の住友グループの前身である泉屋が採掘を請負い、排水工事に成功して六大銅山に数えられるほど栄えている。ただ、泉谷は伊予の別子銅山へ注力するために20年ほどで撤退し、後には、幕末まで大塚氏の福岡屋が請負った。

吹屋銅山の歴史と構内図

 明治以降は、土佐藩系政商から身を起こした岩崎弥太郎の三菱商会が経営権を取得し、西洋式の近代採掘技術を導入して溶鉱炉なども造られ、黄銅鉱や磁硫鉄鉱を産出して日本三大鉱山のひとつとなっている。しかし、三菱の撤退によって昭和6年(1931)かその翌年に1度閉山してしまい、第二次世界大戦後には操業を再開したものの、やがて細々と操業が続けられるのみとなり、昭和47年(1972)に閉坑となった。

 その後、昭和53年(1978)に、ふるさと村整備事業の一環で観光用に笹畝坑道が修復され、現在は約320mの坑道を見学することができ、内部は想像するよりも遥かに広い。この笹畝坑道は、銅山の本山ではなく支山であるが、斜坑によって本坑と繋がっており、出口のさらに上には露出した鉱脈も見ることができる。坑道の広さからは、かつて多くの人が働いていた頃の繁栄を偲ぶことができるだろう。

 

最終訪問日:2006/6/24

 

 

訪れたのは6月で、すでに半袖の季節でしたが、坑道内はほぼ15℃前後で、他の鉱山と同じく慣れるまでは寒かったです。

坑道あるあるですね。

それにしても、内部の坑道の広さにはびっくりしました。

鉱脈が集中していたんでしょうね。