Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

不忍池

 一見すると、整形された形から人口の池のようにも思えるが、上野恩賜公園のある上野台地と、その向かいの本郷台地の間の低地に水が溜まった天然の池である。

 かつての不忍池付近は、武蔵野台地の東の部分を流れた旧石神井川が、飛鳥山を越えられずに南流し、その川筋が上野台地と本郷台地の間に谷を刻み、その河川の堆積物が溜まった低地の部分であった。当時の石神井川は、不忍池付近からさらに真っすぐ南へ流れ、東京湾に注いでいた。

 やがて、縄文海進の頃になると、付近は入江へと変わり、海進によって海底谷となっていた地形は、堆積物によって平坦な地形に変化して行くと同時に、海進最盛期かその後に起こった河川争奪によって旧石神井川の流路が変わったことで、海退後には河道ではなくなり、紀元数世紀頃に海跡湖として誕生したのが、不忍池である。

 ただ、大きな河道ではなくなったとは言え、その後も谷田川や藍染川と呼ばれる細流が不忍池に注いでおり、不忍池から海へ流れ出す南の流路も残されていた。

中之島にある不忍池の碑

 この不忍池が大きく改変されるのは江戸時代で、寛永2年(1625)に寛永寺が創建されると、比叡山に対する琵琶湖に見立てられ、聖天が祀られていた小島を拡張して中之島とし、辯天堂が建てられたほか、その参拝客の利便性を図るために石橋が架けられるなどしている。

 明治維新後は、寛永寺の境内だった上野台地が都市公園に指定されたことにより、隣接する不忍池も公園に編入された。そして、欧化政策のひとつの形として、上野不忍池競馬が開催されることとなり、その競馬場として池の外縁を周回するコースが設定された際、コースの整備と併せて池は大きく埋め立てられ、ほぼ今の形となっている。

 その後も、観月橋の架橋や築堤による分断があったほか、戦後の食糧難の際には水田になるなど、変遷は大きかったが、昭和24年(1949)に改めて池として保存されることとなった。

蓮池とビル群

 不忍池の名前の由来は、上野台地が忍ヶ丘と呼ばれたのに対して不忍池と呼ばれたという説が有名だが、「江戸名所談」には、茅やすすきが繁茂する場所でほかは隠れてしまうのに池ばかり露わであることから、忍ぶことができない池という意で名付けられたとあるほか、「新編武蔵風土記稿」には、笹が多いことから篠輪津と名付けられたとあり、ほかにも男女が忍んで逢った場所という説などがある。

 不忍池の諸元にはいくつかの数字があり、「大辞泉」では周囲を約2kmとしているが、「日本歴史地名大系」では周囲を約1.4kmとしており、資料によって差異が大きい。面積は約約11万m2だが、「江戸名所記」には5町四方とあり、現在の倍近い大きさがあったようだ。

 現在は、前述のように堤によって池は3つに分割され、蓮が群生する南の蓮池、ボートが楽しめる西のボート池、上野動物園の一部となっている北の鵜の池と、それぞれの特徴を捉えた名が付けられている。平均水深はどれも90cm前後と浅いが、それぞれ使われ方の違いがあり、雰囲気は大きく違っていた。最も大きいのは蓮池で、他の2つの池を足した大きさを持ち、その名が示すように夏には蓮の名所として多くの人が訪れる池であり、この部分が、古くからの不忍池の風情を最もよく残しているのかもしれない。

 

最終訪問日:2022/11/28

 

 

江戸城のお堀もそうですが、大きな空間の水辺があると、都会でも落ち着きますね。

不忍池の綺麗な写真をインターネットでは見かけるんですが、訪れたのが晩秋だったので、蓮はイマイチでした。

当たり前か笑

また、暑い時期に訪れたいですね。