Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

兼六園

兼六園案内図

 林泉廻遊式の大名庭園で、金沢藩の代々の藩主が愛した庭園。日本三名園、もしくは三大庭園のひとつに数えられ、国の特別名勝にも指定されている。

 兼六園作庭以前のこの場所は、百間堀と言う堀を挟んだ城のすぐ向かいということもあり、前田家入部の際には、前田家ゆかりの寺が建立され、江戸時代に入ると重臣の屋敷となった。これらは、防衛拠点としても機能するよう考えられた建物であったのだろう。

 その後、2代将軍徳川秀忠の娘珠姫が輿入れした際、その付き人達の住居となり、珠姫没後は作事所という役所が建てられていたが、5代藩主綱紀の治世であった延宝4年(1676)に、蓮池御殿という別荘が建てられ、それに伴って周辺を庭園化したのが最初の作庭である。この庭園は蓮池庭と呼ばれ、今の瓢池の辺りがそうらしい。

 この後、宝暦の大火で蓮池御殿は焼失してしまうのだが、11代治脩が復興し、12代斉広の時に松平定信に依頼して兼六園命名され、13代斉泰の嘉永4年(1851)に現在の形となった。

 維新後は、明治4年(1871)から段階的に公開されるようになり、同7年(1874)から完全に一般公開されたが、管理が徹底されなかったこともあって昭和51年(1576)から有料化され、同60年(1985)には特別名勝に指定されている。

 兼六園の名の由来は、中国の洛陽名園記という書物に、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望という相反する6つの要素を兼ねているのは湖園のみという記述があり、その6つを兼ね備えた名園という意味で名付けられたという。

 多くの観光客が訪れる古都金沢の中でも、知名度が抜群の観光スポットだが、明治期の荒廃や、戦時の松脂採取など、庭園存続の危機は幾度かあったようだ。これを乗り越えて維持してきたのは、文化に力を入れてきた加賀藩ならではの気風が、明治以降も市民のどこかに残っていたからなのかもしれない。

 訪れた時は、休日というのもあって観光客でごった返しており、庭園の植物に何らかの影響があるのではないかと他人事ながら心配してしまうほどだ。園内を散策すると、江戸時代の成熟した庭園の姿に感心すると共に、当時の藩主達がどのような思想、理想を持っていたか、朧気ながら感じることができるような気がした。

 

最終訪問日:1995/8/20

 

 

なんと言っても規模が桁違いの庭園でした。

江戸町通の茶店を見ていると、なんだかお祭りみたいで、楽しい気分になりますね。