Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

中山茶臼山古墳

中山茶臼山古墳前景

 中山茶臼山古墳は、他の同名の茶臼山古墳と区別する為、吉備中山にあることから中山を冠して呼ばれる。また、現地案内板では、中山御陵という名で記されていた。

 古墳は、第7代考霊天皇の皇子で、桃太郎のモデルといわれる大吉備津彦命を葬った陵に比定されている。吉備津彦命は、記紀においては、崇神天皇の御世に四道将軍として西道に派遣され、吉備地方を平定したと記されており、吉備津神社の社伝に拠ると、後に吉備の中山の麓に茅葺宮を建てて居住し、亡くなった後はその頂に葬られたという。

 この記紀などの伝承を根拠として、現在は宮内庁の管理下に置かれ、古墳への立ち入りはできない。築造は、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀と推定されるが、史料が少なく、具体的には確定していないようだ。大きさは、墳長は105mあり、前方部長45m、後円部径68m、高さ11mで、大型の古墳と言えるだろう。

 古墳付近から西北を眺めると、鬼ヶ島にたとえられた鬼ノ城を遠望することが可能である。御伽話を、大和朝廷がその支配地域を全国に拡げていく時代に当てはめると、崇神天皇の時代に、大和朝廷に従わない吉備の温羅一族の討伐を命ぜられた大吉備津彦命が、犬や猿や雉を崇拝する親大和の部族の力を動員して温羅遺跡のある鬼ノ城に兵を出し、討伐に成功したということになるだろう。ただ、桃太郎伝説は愛知にも香川にもあるため、この近辺が、神話や歴史的事実から桃太郎伝説の発祥地に推定されるという話にはなりにくいようだ。

 吉備津神社から曲がりくねった車道で山に入り、そこから更に遊歩道の階段をひたすら登っていくと、木々に囲まれた参道の向こうに古墳が見えてくる。古墳の周りには立ち入りを制限する柵があり、古墳の周りを一周することはできないが、周辺には木陰が多く、非常に神秘的で厳かな雰囲気が漂っていた。古墳の前に立つと、理由も無く歴史を感じるのだが、これは、有史以来と言えるほど積み重ねられた年月の重みかもしれない。

 

最終訪問日:2008/6/20

 

 

10数年ぶりの訪問でしたが、若かりし頃に訪れた時と変わらない印象でした。

天気が悪い中、古墳の前を掃除している方がおり、こうやって粛々と古墳が守られていくのかなと思うと、妙に感慨深かったですね。