斎王とは、斎皇女(イツキノミコ)とも呼ばれ、天皇家の宗廟である伊勢神宮の祭主のことであり、後には賀茂神社にも同じく祭主が置かれ、そちらは特に斎院と呼ばれた。
斎王は、天皇家の宗廟に対する祭祀を執り行うため、当然ながら天皇と血が繋がった人物でなくてはならず、必然的に天皇の娘である内親王や、それに近い女王が斎王に選ばれたという。また、沖縄に見られる神女(ノロ)の風習は本土の古代神道と祖が同じではないかと思われるが、この斎王も神女と同じく、神に仕える巫女的な性格を持っていた。
斎王の歴史は古く、記紀によれば、崇神天皇6年に崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に天照大神を祀らせ、同じく皇女の渟名城入姫命に倭大国魂神を祀らせたのがその嚆矢とされるが、国家制度としては、天武天皇の時代に始まる。
天武天皇元年(672)の壬申の乱の翌年4月14日、天武天皇の皇女である大来皇女が初代の斎王に任ぜられ、泊瀬斎宮に入った。これが制度としての初見である。大来皇女は、その翌年の天武天皇3年(674)10月9日に伊勢へと向かった。
後には、斎王の伊勢への下向は斎王群行として形式が整えられ、500人の随員を擁して伊勢へ向かったという。頓宮とは、つまりは仮宮のことで、この斎王群行の際の宿泊所であった。当然、京から伊勢までは1泊では辿り着けないため、頓宮はこの垂水だけではなく、近江国府、甲賀、鈴鹿、壱志にも設けられており、その5泊6日の行程の中では、垂水は3泊目の頓宮にあたる。
斎王の制度は、この後、源平合戦の際の途絶を挟みながら、建武の新政の頃まで続いたが、朝廷の権力の低下を示すように次第に規模は縮小され、建武政権の崩壊と共に途絶えたという。
頓宮跡には、現在も大きな杜があり、伊勢神宮から分詞された小さな祠もあって、閑静かつ厳かな空気が今もなお残っており、斎(イツ)くという言葉がまさに似合う空間となっていた。斎宮という制度を考えると、古代神道と天皇家がいかに密接な関係にあったかというのがよく解り、政治的な制度の話とは別に、当時の文化観、宗教観を知る上で非常に興味深い。
最終訪問日:2001/8/27
国道1号線を走っていると、ポンと案内表示が出てきます。
頓宮の境内地は、シンプルに祀るべきものをただ祀るという、古代神道に近いような雰囲気で、ぽつんと社がありました。
しかし、頓宮の廃絶は相当前なんですが、今でも頓宮の地名が残っているというのは、歴史を感じますね、