Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

虎御前山陣所跡

虎御前山陣城布陣図

 元亀元年(1570)の姉川の合戦で勝利した信長は、小谷城の南東約9kmにあって浅井領を南北に分断することが可能である横山城を奪取し、秀吉を城番にしていたが、立ち枯れるように佐和山城主磯野員昌の降伏に追い込むなどして南部を平らげ、いよいよ浅井氏の本城小谷城の攻略に取り掛かった。

 こうして信長は、小谷城攻略のため、その東南2.5kmにある標高224mの独立丘陵の虎御前山に目を付け、まるでその決意を表すように、小谷城の目と鼻の先ともいえるこの場所に陣城を築いたのである。

 陣城の構築は、信長公記には、元亀3年(1572)の7月終わりから8月半ばまでとあり、約1年後の小谷城落城まで攻略用拠点として機能した。攻略後、攻城のための付城ということもあり、小谷城落城によって機能を終えた後は廃されたという。

 ちなみに、信長はここでも城番として秀吉を置いており、一貫して秀吉に対浅井戦線を担わせている。その方針の延長線上に、後の小谷城攻略で京極丸を奪取して浅井久政・長政父子の分断に成功した功も加え、旧浅井領を秀吉に与えるという判断があるのだろう。

 虎御前山には複数の峰があるが、それぞれ南から多賀貞能、蜂屋頼隆、丹羽長秀滝川一益堀秀政織田信長、木下秀吉、柴田勝家と、織田家の中でも名のある将が陣取っていた。これらの名を見ると、信長のこの戦いに対する力の入れようが解るだろう。

 現在は、陣所跡が公園となっており、かつて織田家の部将が陣取ったそれぞれの場所まで遊歩道が整備され、陣があった場所には陣取った武将を紹介する碑が建っていた。南の峰にはキャンプ場もあり、訪れた時には時間の関係でキャンプ場までしか行けなかったが、キャンプ場の展望台からは、小谷山はもちろんのこと、田園を通る北陸道北陸本線が見渡せ、信長が陣城を置いた理由がよく解る。

 

最終訪問日:2001/8/24

 

 

長浜の市街地の北側に、ぽっこりと盛り上がっているのが虎御前山です。

そして、本当に小谷城とは目と鼻の先。

陣城としては、これほど最適な場所はないですね。