Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

山本山城

山本判官古城と記された麓の城址

 小谷城の西の支城となっていた山城。

 新羅三郎義光の裔である山本義定かその子義経が、平安時代末期に築城したという。この山本氏は、近江に土着した近江源氏ではあるが、繁栄した宇多源氏の佐々木氏とは違い、清和源氏の流れである。

 山本山城が歴史に登場するのは、以仁王が全国に平家打倒の令旨を送った治承4年(1180)で、これによって挙兵した義経近江源氏は、三井寺に討ち入るなどしたが、やがて平家軍に押され、義経の居城である山本山城に籠った。しかし、平知盛と資盛率いる平家軍に攻撃され、12月に落城し、義経は関東へと落ちている。そして、義経は、頼朝の下に伺候はしたのだが、後に頼朝軍から離れて源義仲軍へと投じ、入京を果たしたものの、義仲が頼朝の弟義経に敗れたことにより、没落した。

 その後、中世の城の動向は不明となるが、戦国時代には、城からすぐ西の尾上湊付近を本拠地とした有力国人浅見氏の支配下にあったようで、永正14年(1517)に浅井亮政が江北の守護京極高清を幽閉した際には、磯野氏と共に浅見貞則が京極側としてこの山本山城に籠城し、後に落城している。その後、貞則は高清や京極家の老臣上坂信光と対立し、亮政ら国人達の旗頭となって高清の長男高延擁立に成功したのだが、今度は貞則が専制化したため、亮政を中心とする国人連合に追われ、亮政台頭の因を作った。

 このようにして浅井氏が台頭した後は、阿閉貞征が城主となり、浅井氏の本拠小谷城の重要な支城として、東の北国街道や西の尾上湊の水運を監視する機能を果たした事から、城は阿閉城と呼ばれることもあるという。貞征は、後の元亀元年(1570)の姉川の合戦では第3陣を任されており、これを見ても、浅井家中においてかなりの地位を占めていた事が判る。また、藤堂高虎や渡辺官兵衛了といった著名な武将が一時は仕えた人物でもあり、貞征の残した事跡は少ないながらも、割に知られている武将だろう。

 この頃の浅井氏は、元亀元年(1570)に信長の越前侵攻によって織田家と断交した後、同年6月に朝倉軍と共に織田・徳川連合軍と前述のように姉川で戦っているが、この姉川での敗北後も、志賀の陣に見られるように、しばらくの間は盛んに活動していた。しかし、織田方による盛んな調略などもあって家臣団に綻びが出始め、徐々に勢力を衰えさせていく。

 そんな中、貞征は元亀3年(1572)に信長自らの山本山城への攻撃も撃退するなどして浅井家を支えていたが、翌天正元年(1573)には調略に屈し、城に織田軍を引き入れている。この寝返りが戦局に与えた影響は大きく、勢いに乗った織田軍の小谷城攻撃、他の武将の寝返りと小谷城後背にある大嶽城の陥落、越前からの援軍である朝倉軍の潰走、織田軍の追撃による朝倉家滅亡、そして小谷城陥落による旧主浅井氏の滅亡という、一連の流れの端緒を作った重要な出来事となったのだった。

 浅井氏滅亡後、貞征は本領を安堵されて山本山城に留まり、子貞大と共に浅井旧領を与えられた秀吉の与力に付けられたようだ。しかし、秀吉とは竹生島を巡っての対立などがあって折り合いが悪く、後には信長付きとなって伊賀攻めなどに参陣している。

 天正10年(1582)の本能寺の変の際は、親子で明智光秀に味方し、長浜城攻めや山崎の合戦にも従軍しているが、光秀没後は居城に退き、秀吉軍の攻撃を受けて落城、族滅された。また、城もこれ以降、廃城となっている。

 最初に訪れた時は、朝日山神社のところから常楽寺の辺りまで登ってみたが、琵琶湖1周の途上であったので時間が無く断念し、2度目は宇賀神社の脇から登ってみたものの、夕闇迫る時間で帰りに登山道を見失いそうだったので、泣く泣く引き返した。現在の城跡の周辺は、東南の山麓に朝日山神社、中腹に朝日山常楽寺があって、宗教的な静かな雰囲気があるほか、昼間には朝日小学校から子供の声なども聞こえてくるのどかな里山で、当時は激戦があったということを想像するのは難しい。

 

最終訪問日:2011/10/11

 

 

電車とバスで城へ行くなら、宇賀神社の前のバス停が山本山登山口というバス停だったので、分かり易いですね。

朝日山神社のルートと宇賀神社のルートは、どちらも途中から同じ道となり、山本山から賤ヶ岳まで登山道が続いているらしいので、一度ゆっくりと1日かけて賤ヶ岳まで山歩きをしてみたいとは長らく思っているんですが、実現するのはいつになることやら。