Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

長浜城

長浜城模擬天守城址

 長浜城の前身である今浜城は、バサラ大名として名を馳せた京極道誉こと佐々木高氏の家臣、今浜六郎左衛門が南北朝時代建武3年(1336)に築いた。

 この今浜氏は、今浜に勢力を持っていた在地豪族であったが、後には坂田郡上坂田を本拠とする上坂氏に取って代わられたらしく、上坂氏は本拠である上坂城と同様にこの今浜城を重要な拠点とし、後には居城にしたという。

 上坂氏は、京極家中でも執権職に就くほどの重臣で、戦国時代には景重、家信、信光などの名が史料に見える。時代的に景重と家信は同一人物かと思われ、信光は家信の子であり、この父子は京極家の家督争いの際に、重要な役割を演じた。この家督争いでは、今浜城も幾度か戦場となっており、文亀元年(1501)には、京極高清を擁した景重が今浜城に籠城して国人連合を破ったほか、大永3年(1523)には、高清の次男高吉を擁する信光が国人連合に敗れて落城し、城を追われている。そして、上坂氏没落後に台頭したのが、国人連合に参加した浅井氏で、やがて京極氏を下克上し、戦国大名として成長して行く。

 戦国大名となった浅井氏は、この今浜城も支配下に置いたが、浅井氏時代の城主はよく判らない。天正元年(1573)の小谷城陥落による浅井氏滅亡後、攻城に功を挙げた秀吉に旧浅井領が与えられ、秀吉が新たに城を築いて居城としてから、城は有名となる。

 秀吉は、峻険な山城である小谷城の防御力よりも、北国街道や湖上の交通を重視しており、小谷城の資材や竹生島の材木を使用して、新たに今浜の地に城を築き直し、同3年(1575)の完成と共に本拠とした。その時に信長から一字を拝領し、地名も長浜と改めている。

 秀吉は、中国方面の軍団長として黒田孝高から提供された姫路城を拠点としていたが、本城はあくまでこの長浜城であり、妻お寧を始めとする一族もこの城に居た。そのため、天正10年(1582)の本能寺の変後には、本拠地であるが故に明智光秀に味方した阿閉貞征などに占拠されている。また、清洲会議において、柴田勝家に対する妥協点として城が明け渡されたのも、織田三法師の居城となった安土城に近いという理由の他に、秀吉にとってのゆかりの城ということも考慮されたからだろう。

 清洲会議後、柴田氏に明け渡された長浜城の城主となったのは、勝家の養子勝豊であった。しかし、雪によって北陸との連絡が途絶えた同年の12月、秀吉は電光石火の出陣で長浜城を囲み、開城降伏させている。敵地に突出し、雪で援軍も期待できない上、養子間での対立で勝家から心が離れていた勝豊にとっては、抗戦せずに降伏臣従というのは止むを得ない選択であった。

 翌同11年(1583)の賤ヶ岳の合戦後、一帯は堀秀政の属領となり、同13年(1585)には、山内一豊若狭国高浜から入城している。山内家の文書では、この前年にも1度長浜城主になっていたとされるが、実際のところはよくわからない。

 この一豊が遠江国掛川に移った後は、佐和山城石田三成の属城になっていたと思われ、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で三成が滅んだ後は、空城となっていたようだ。そのため、同11年(1606)に内藤信成が入封して長浜藩が成立した際には、補修を含めた改修が施されている。その後、子信正が元和元年(1615)に高槻へ移動し、城は元和元年(1615)の一国一城令で破却された。

 廃城後、彦根城築城の際に資材を持ち出すため、船が接岸しやすいよう地形が大幅に変えられ、明治時代にも長浜止まりだった鉄道の連絡船として大津長浜間に航路が設定されたため、長浜港開港で内堀が開削されるなど、当時の城域には大幅な改変が加えられており、城の一部は湖水に沈んでいる。

 当時は、湖に接した水城の形で、岐阜を本拠地としていた信長が、京都へ上る際に長浜から坂本まで船で移動したという記述が史料に多く残っており、安土城築城後も、湖上交通の要として重要視されたようだ。ただし、城の縄張がどのようであったのかというのは、あまり判っていない。城には後に天守閣が建てられたが、現在の模擬天守から北西へ50mほどの所が当時の天守であり、現在の石垣は散らばっていた石垣の残骸を積み直した物である。また、琵琶湖の渇水時には、太閤井戸と呼ばれる城の井戸を見ることも可能だ。

 現在の豊公園内の復元天守は、資料館を兼ねており、そこからの琵琶湖の眺望が素晴らしい。城自体の遺構は寂しいものだが、長浜市内には僅かながらかつての城下町を偲ぶことができる場所もあり、大きくない街でもあるので、城を含めて徒歩で散策すると、色々な発見があって愉しかった。

 

最終訪問日:2000/4/25

 

 

城跡は、都市公園の雰囲気で、模擬天守がドンと建っている以外は、城らしい感じはありませんでした。

ま、遺構がほぼ無いので、仕方ないんですが。

長浜は、東海道線開通当初の連絡船との乗換駅でした。

その整備で遺構の破壊もあったんですが、信長も全く同じ方法を採ったわけですから、300年経っても長浜に期待される機能は変わらなかった・・・という部分で妙に普遍性を感じますね。