Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

鬼ノ城跡

展望台から復元されている西門と城壁を眺める

 西日本の要害の地に多く築かれた古代山城のひとつ。

 大和朝廷と友好関係を持っていた朝鮮半島百済は、斉明天皇6年(660)に唐・新羅連合軍に敗れて滅亡した。しかし、遺臣の鬼室福信が再興の兵を挙げるに及び、朝廷は人質として日本へ来ていた豊璋王子を護衛しつつ反乱軍と合流させるため、援軍を送ることに決する。だが、出陣翌年の天智天皇2年(663)、援軍は白村江の戦いで全滅ともいえるほどの大敗を喫し、その結果、百済は完全に滅亡、日本も朝鮮半島の友好国を失ってしまう。

 その後、唐・新羅連合軍による日本遠征が朝廷内で危惧され、その対応策として、防衛網を築くべく畿内から瀬戸内、北九州にかけて軍事拠点となる城柵が構築された。これが朝鮮式山城と呼ばれる古代山城で、長門城や大野城などが有名である。

鬼ノ城説明板

 鬼ノ城も、発掘された遺物の年代から考えて、このような対外情勢のもとで構築されたと推定されているのだが、これはあくまで推定に過ぎない。そもそも、鬼ノ城は大野城などの朝鮮式山城と似た構造であるが、系統としては、神籠石系と呼ばれる16の山城のひとつに分類されている。両者は、山頂部を囲って区画し、排水の為の水門を設けているなど共通した部分もあるが、朝鮮式山城の基本は石塁や石垣であるのに対し、神籠石系山城は神籠石を基準として土を重ねて固めていく版築土塁が基本で、鬼ノ城は明らかに神籠石系の山城という。また、神籠石系統の重要な要素のひとつである、日本書紀などの正式な歴史書には記載が無い、ということにも当てはまっている。一説には、神籠石系山城の築造は6世紀まで遡ることができるともいわれており、鬼ノ城がいつ頃どのような目的で築かれたのかというのは、実際のところは一切が不明とするのが正確だろう。

西門を下から

 ここで思いつくのは、温羅伝説である。伝説では、温羅という鬼がこの山に住み、周囲から人や物を掠め取るなどの悪事をはたらき、人々はこれを恐れて温羅の住む山を鬼ノ城と呼んでいた。そこで、大和朝廷は皇族の吉備津彦命を派遣して温羅を討たせたという。これが桃太郎伝説のモデルになった話だが、政治的な要素を入れて想像してみると、吉備に勢力を持っていた実力者が大和朝廷に服しない為、朝廷が将軍を遣わして犬や猿、雉などを崇拝もしくは象徴とする地元部族を動員して討伐したと考えることができる。

 ただ、温羅に関しては、古代の先進地帯であった吉備の王族という説から、百済より亡命してきた王子という説まであり、また、吉備津彦命に関しても、中央に取り込まれた吉備の勢力が皇統を称す為に創作もしくは仮冒した人物という説があり、そう単純な話ではない。しかも、これらの説では、発掘された遺物の年代よりも鬼ノ城の築城年代を遡る必要があり、なかなか古代のロマンというのも簡単ではないようだ。

鬼ノ城へ登ると出迎える形となる角楼

 城の構造は、鬼城山の山頂部を約2.8kmに渡って土塁や石垣で囲い、東西南北の4つの城門と、0から5までの6つの水門を設けている。鬼城山は、伏せたお椀のように急な斜面を持つ割には山頂部が平坦で、山頂自体は城内の西にある西門や角楼の近くと偏っているが、東南方向に広がる城内には緩やかな場所が多く、建物群の礎石や掘立柱跡、鍛冶工房跡なども見つかっているという。また、頂上付近には狼煙場らしきものも発見されており、今後も継続的な発掘調査による新たな発見が期待できそうだ。

 鬼ノ城には、散策や登山のためのビジターセンターがあり、そこで資料などが貰える。センターからは舗装された登山道が整備されており、途中の峰筋に突き出た学習広場からは、復元された西門や角楼のほか、総社市街までが一望でき、なかなか良かった。

 この西門や角楼はかなりの大きさがあり、特に西門はすぐ下から見ると圧倒されるほどで、想像復元であるが故に、実際にはどれぐらいあったのかは分からないとは言え、相当堅牢な建物があったのは間違いない。城内を1周すると相当時間がかかるので西門と鬼城山頂上付近の散策だけに留めたが、この西門と角楼だけでも、かなり満足感が得られる史跡である。

 

最終訪問日:2007/6/21

 

 

まだまだ技術も拙い古代に、こんな巨大な構造物があったというのは驚異ですね。

判っていることが非常に少なく、歴史の霧に包まれている史跡だけに、逆にロマンは掻き立てられます。