Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

今城塚古墳

今城塚古墳の前方部と造出し部分

 第26代天皇継体天皇の陵墓に推定されている古墳。ただし、宮内庁の陵墓参考地には指定されておらず、発掘可能な大王墓として貴重な存在である。

 今城塚古墳は、古墳時代後期の6世紀前半に築造された、二重の環濠を持つ前方後円墳で、墳丘は長さ190mに達し、淀川流域で最大の規模という。規模と築造時期の文献史料との比較から、6世紀前半に崩御した継体天皇が被葬者であるという説が有力で、学会では定説となっているようだ。

 一方、宮内庁は、継体天皇陵は1.3kmほど離れた太田茶臼山古墳としており、見直しには難色を示しているという。また、淀川近辺に初めて出現した巨大墓であることから、河内や大和の大和川水系の勢力から、淀川系勢力に王権の主導権が移った証とも推測されている。

今城塚古墳案内板

 その後、戦国時代には、三好長慶によって芥川山城の出城が古墳上に築かれ、それに伴った破壊があったとされてきた。しかし、発掘調査によって、使用前の円形の鉛玉が発掘されたことなどから、鉄砲隊を組織可能だった大名、つまり織田信長が永禄11年(1568)に摂津へ侵攻した際に、陣城として築かれた可能性が高くなったという。また、築城の際に大きく改変されたという説も、内側の環濠内の土砂の分析から、土塊のまま一気に埋め立てられたことが判っており、文禄5年(1596)閏7月の慶長伏見地震による墳丘の地滑りによって、大きく形が変わったものと推測されている。

周濠部には復元された埴輪が並ぶ

 現在の古墳は、公園として整備されており、訪れた日も多くの子供が遊んでいて、近所の人に愛されている古墳のようだ。公園内や墳丘には遊歩道が設けられ、自由に散策できる巨大古墳として、非常に貴重な存在である。

 同じ大阪府下の高屋城もそうだが、墳丘を城として使われた古墳であり、個人的にはその興味から訪れてみたのだが、古墳公園として整備されているのもあって、城の遺構らしきものは、前方部と後円部の間に堀切らしき窪みがあった程度だった。とは言え、古墳としては丁寧に整備されており、散策も愉しい古墳である。

 

最終訪問日:2018/3/24

 

 

昔は堀が釣り堀になっていたとか。

でも、今はとても奇麗な古墳公園となっています。

訪れたのが春休みという事もあって、親子連れがたくさんいました。

桜も咲き始め、早めの花見だったんでしょうね。