Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

福中城

 国道175号線の芝崎交差点から福中交差点付近に掛けて存在した城で、赤松政則が土師道海に縄張させて文明年間(1469-87)に築城したとされ、東から延びる舌状台地の先端部に造られた崖城であった。

 城主は赤松庶流の間島氏で、真島や間嶋とも書かれ、足利尊氏に従って赤松家を興隆させた赤松円心則村の4代前の則景から分かれたとも、5代前の頼則から分かれたともいわれる。

代々彦太郎を通称とし、南北朝時代には範清(則清)という人物が摂津守護代となっているが、本貫の地は別にあり、福中城の間島氏が守護代の流れなのか、それとも庶流など違う流れなのかは不明という。

 城のある明石郡平野荘へは、南北朝時代の初期に地頭として入部したとされ、この福中の間島氏も代々彦太郎を通称としていた。史料には、間島則真という人物が室町時代の正長年間(1428-29)に、同じ神戸市西区にある性海寺へ土地を寄進したという記録が残っている。

 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で赤松家が滅んだ後、間島氏は赤松家再興のため、他の赤松浪人らと後南朝方から神器を奪還するという働きを見せ、新たに赤松氏に与えられた加賀に入部し、やがて加賀守護代となっていたようだ。これは応仁元年(1467)からの応仁の乱の直前の頃だったようで、「応仁記」にその記述が見えるが、この河内守を名乗った間島氏は同年6月に討死しており、これ以降、子孫がどうなったかなどの詳細はよく判らない。

 この後、赤松旧臣らは、応仁の乱で敵方山名宗全が守護となっていた播磨への侵入を図り、領民や寺社の受け入れもあって瞬く間に復帰を果たすのだが、河内守の子孫も同時期に平野荘へ戻ったのだろう。そして、その新たな拠点として、前述のようにこの福中城を築いたのだと思われる。

福中城と間島氏の説明碑は宝珠寺にある

 時代が下った戦国時代には、間島氏は、東播磨に勢力を持った別所氏を盟主と仰いでいたようだ。しかし、天文23年(1554)から翌年にかけて播州三好長慶の勢力が及ぶと、別所氏と共にその影響下に入り、永禄2年(1559)の河内高屋城攻めや、松永久秀が支配する摂津滝山城を攻めた同9年(1566)の戦いにも三好方として参陣している。

 戦国時代後期に入ると、永禄11年(1568)の信長の上洛によって三好氏の勢力が後退した事により、再び別所氏が独立し、福中城は別所氏の本拠三木城の支城として機能したようだ。

 別所氏は、当初は信長に与してその播磨平定に協力していたが、やがて毛利氏の調略もあって秀吉と不和を生じ、それは播磨の国人を巻き込んで天正6年(1578)の三木合戦へと繋がっていく。

 この三木合戦で間島氏は、口伝では別所方についたとも、織田方についたともいわれているが、城跡から西北200mほどの場所にある宝珠寺には、御家存続のために父氏常は別所方に、子の氏勝は織田方に分かれて戦ったとの口碑がある。

 関ヶ原の合戦時の真田氏や生駒氏、九鬼氏などに見られたように、2つの大勢力の決戦時に双方に目を残しておくのは中小豪族の常套手段であるとは言え、三好氏や別所氏といった強い勢力の間を転々とし、さらには御家存続のために家を割って戦わなければならなかった中小国人の悲哀と苦悩は、事跡を見る限り、戦国時代の間島氏には常に付きまとっていたのだろう。

 三木合戦後、織田方についた氏勝は、三木合戦後も福中城主として秀吉に属したが、天正9年(1581)に城割りと呼ばれる政策によって福中城は廃城となったようで、後に淡路の岩屋城へと転じている。

福中城主であった間嶋氏の五輪塔

 氏勝は、以降も秀吉の天下統一を目指す合戦のほとんどに参陣し、方広寺大仏殿造営の奉行や、天正20年(1592)からの文禄の役名護屋城の警備を務めたが、それ以降は消息が途絶え、改易されたのか転封されたのかも不明で、一説には慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際に西軍に属して没落し、播磨出身である黒田如水を頼ったともいう。

 城は、方形の本丸を中心として北に二ノ丸が細く配され、東に三ノ丸、西に上ノ丸と下ノ丸を擁した5郭構成で、内堀、外堀を有し、小規模ながらもしっかりとした縄張を持っていた。本丸と二ノ丸は、現在の国道175号線の位置にあったとされ、往時は眼下に三木街道を望み、明石川沿いの田園を支配下に置いていたようだ。

 その立地を証明するように、三木合戦の際、城から放った矢が遠く離れた街道を進む織田軍まで届いたため、城の所在が分かって落城したとの伝承も伝えられ、やや北の印字という字に矢坂の地名が残っている。

 ちなみに、光源氏ゆかりの月見の池がある明石の朝顔光明寺は、江戸時代までこの福中城内にあったという。この光明寺は、創建年代に諸説があるのだが、もし室町時代の創建ならば、間島氏と何らかの繋がりがあったのかもしれない。

 現地を訪れてみると解るが、三木街道の代替として整備された国道175号線は、幹線国道として構築されたため、明石川が作った川沿いの平野部を通ることなく、直線的に台地を突っ切るルートが採られた。このため、明石川沿いの三木街道を見下ろす位置にあった城跡を通ってしまい、往時は三木街道を監視していた城が、現代の三木街道の用地になるという皮肉な結果になっている。

 そして、この国道と宅地の開発で、城跡の痕跡を留めていたものがほとんど無くなり、さらに痕跡が残っていたかもしれない僅かな藪も、4車線化工事で無くなってしまった。今では、城の存在を伝える唯一のものとして、間島氏の菩提寺とされる宝珠寺に碑があるのみである。

 

最終訪問日:2025/5/4

 

 

以前は、僅かに城跡を感じるものとして、本丸跡を住居にした人の名字なのか、小さな地名として残っていたのか、国道175号線福中交差点付近に本丸と名の付いた自動車整備工場があったんですが、それも無くなってしまいました。

なので、残念ながら今では城跡を偲ぶものが何もなくなってしまっていますね。

せめて本丸跡には、城址碑と縄張図が欲しいところ。

教育委員会さん、頑張ってください!