Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

船上城

 船上城のあった一帯には、古くは室町時代に赤松氏が砦を構えていたという。城からすぐ北の和坂には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に、幕府を迎え討つ赤松軍の陣が置かれており、それと連動して防衛線の役割を担ったのかもしれない。

 戦国時代の永禄年間(1558-70)前後には、三木城主別所長治の叔父吉親が築いた城があり、林ノ城や林城と呼ばれていた。この林ノ城には、三木合戦の時に大屋肥後守が城主として籠もっていたが、秀吉軍によって落城し、戦後に蜂須賀正勝生駒親正が在城したという。ただ、この城は北の枝吉城と近く、天正8年(1580)に秀吉が播磨で行った城割りで廃城になった可能性が高そうだ。

 天正13年(1585)、明石郡の国人領主である明石則実に代わって高山右近重友が明石郡6万石を与えられて高槻から入部し、翌年に明石氏の居城であった枝吉城からこの船上城を築いて本拠を移した。ただし、当時に呼ばれていた名は、枝吉城と同じく明石城である。

船上城説明板

 この新城が、林ノ城と同一の場所にあったかどうかというのは判っていないが、恐らく右近は、旧城を利用して大幅に改修し、惣構えや天守を持つ近世城郭にしたと思われ、船上の名前から分かるように海上交通を意識した城として整備したのだろう。実際、秀吉から船を与えられて湊を整備しており、城下や湊は瀬戸内の中継地として活用された。

 その後、右近はキリスト教を棄教しなかった為に在城2年で所領を没収され、周辺は秀吉の直轄となり、黒田長興などが城番となっている。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、姫路に入部した池田輝政の領地となって家老の池田利政が入り、慶長18年(1613)には輝政の甥由之が城主となり、明石川に堤防を築くなど、周辺の整備に尽力した。

 そして、慶長20年(1615)の大阪の陣の後、元和3年(1617)に西国への抑えとして明石に小笠原忠真が入部し、翌年から新たに明石城の築城を開始した為、船上城は廃城となっている。この明石城築城の際、城の資材は明石城へ移されて再利用されたのだが、再利用されずに残った建物も、結局は後に失火で焼失してしまったらしい。

古城大明神がある船上城本丸跡の全景

 この時に移された資材としては、明石城のシンボルのひとつである巽櫓が、船上城からの移築であると推定されているほか、明石城の堀の前に建っている明石藩家老の織田家長屋門も、船上城から移されたものとして伝えられている。ちなみに、播州弁で馬鹿の同義語にダボというのがあるが、これは屋敷の主である織田家の息子が愚鈍であったことから織田坊が訛ったものという説があり、言葉と歴史の関係性があって面白い。

 現在の船上城周辺は、宅地化が進んでおり、ほとんど面影らしきものを留めていないが、築城の際に堀とした小川が古城川として僅かに残り、本丸跡とみられる場所には、古城大明神という小さな社がある。この社が建っている2m程の高さの台地は、櫓跡か天守台と推測され、そこそこ大きな石がたくさん転がっていた。これは、石垣に使う巨石は明石城に持ち去られたが、石垣の内に詰めていたぐり石等が残されたものなのだろう。そのほかに城の痕跡を伝えるものとしては、古城川を含め明らかに人工的に曲げられた細流が3筋あり、それが堀の跡かと地図上から想像する程度である。

 

最終訪問日:2015/5/3

 

 

船上城は2代目の明石城です。

ただ、初代の枝吉城や3代目の現明石城とは違って、痕跡は残念ながらほぼ残っていません。

今の本丸跡は、宅地の中の旗竿地みたいになっていて、どこから辿り着けるのかちょっと迷うほどですが、櫓台跡のこの僅かな台地だけは今後もなんとか残って欲しいものですね。