Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高松城 (備中高松城)

 文献には高松城と記されているが、一般には備中高松城と呼ばれる。

 永禄年間(1558-70)末、備中の雄、三村氏の家臣である石川氏が、備前宇喜多直家に備えて築いたというが、築城者は石川久式とも久孝ともいわれ、築城年代もはっきりしない。その後、高松城は石川氏の城となっていたが、石川氏は、三村元親が天正2年(1574)から翌年にかけて毛利氏や宇喜多氏と戦った備中兵乱の際に滅んだ。

 水攻めの時の城主として有名な清水宗治は、久孝の娘婿で、久孝死後の跡目争いか、この兵乱後の混乱の際に、久孝の勢力を継ぐ形で高松城主となった。宗治は備中南東部の国人盟主として毛利氏に属し、小早川隆景に従って軍功を重ねたが、直家が毛利氏から織田氏に寝返ったことによって高松城が前線となり、近隣の城と共に境目七城と呼ばれ、この頃から高松城は歴史の表舞台に登場してくる。

 天正10年(1582)、織田家部将の羽柴秀吉は毛利氏攻略の為に岡山城へ入り、宗治に対する降誘が失敗に終わると、約3万の兵をもって境目七城を攻め、冠山城、宮路山城、加茂城を瞬く間に抜いて高松城へ迫った。一方、高松城は他の城の敗残兵を迎え、約5千の兵力で籠城し、毛利氏の後詰めを待つこととなる。

高松城鳥瞰図

 しかし、圧倒的な兵力を持ってしても、深田と沼に囲まれた城へと続く道は細い畦道しかなく、しかも、唯一城に繋がっていた浮船橋は撤去されており、力攻めではいたずらに損害を増やすばかりであった。そして、打てる手がなくなった秀吉は、遠巻きに囲む持久戦に移らざるを得なくなるのだが、ここで軍師黒田官兵衛孝高の言を入れ、水攻めという奇策に取り掛かるのである。

 5月7日、秀吉は本陣を蛙ヶ鼻へ移し、26町もある堤防の大工事を始めるのだが、農民を高額報酬で大量動員することによって僅か12日間で完工したという。そして、水を堤防内に落とすと、降り続く雨も加わって城は徐々に湖に浮く孤城となり、来援した小早川隆景軍1万は寡兵の為に手が出せず、21日に着陣した吉川元春軍もただ眺めるしかなかった。

 秀吉が、兵力不足の為に和睦へと傾いた毛利氏との和睦交渉を始めた6月3日の夜、明智光秀から毛利氏に向けた密使を幸運にも秀吉軍が捕えたのだが、その密使が持っていた情報は、前日に起こった本能寺の変での信長の横死である。その情報に当然ながら驚愕した秀吉であったが、翌日には何食わぬ顔で和議を結び、城将宗治や兄の月清入道、毛利軍の軍監末近信賀ら7人を切腹させ、悟られぬよう1日空け、6日に退却を開始した。その後、秀吉は中国大返しと呼ばれる急行軍で上方へ戻り、山崎の合戦で光秀を破って天下人への階段を駆け上がっていく。

本丸にある清水宗治の墓

 戦後、城は和睦条件に従って宇喜多氏が支配し、重臣花房正成が入城したが、一説には天正19年(1591)の入城ともいう。その正成は、慶長4年(1599)から翌年に起こったお家騒動で宇喜多家を離れ、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に宇喜多秀家が改易になると、城には正成と同族異系の花房職秀(職之)が旗本として入城したが、しばらくすると別地に陣屋を構え、城は廃城となった。

 城は、規模のそれほど大きくない典型的な沼城である。本丸の比高は僅か4mしかなく、堀で区画された本丸、二ノ丸が南北に並び、南の三ノ丸と西の家臣屋敷がふたつの主郭をコの字形に囲うというシンプルな構造であった。

 現在は、周囲の景色が青々とした水田と宅地に変わっているが、当時は沼や深田で囲まれていた湿地帯であったことだけは、地形から今もなんとなく判る。田園の中に僅かに盛り上がった場所が城跡で、遺構はほとんど調査されることもなかったが、昭和の終わりにようやく発掘調査され、城址公園として整備された。しかし、当時の遺構はほとんど残っておらず、近世に一時陣屋として使われていた本丸が比較的はっきりしているものの、他の郭は判然としない。公園の周囲には、かつて堀か沼であったと思われる所に池があって蓮が群生しているが、公園造成で池を造ったところ、廃城以来生えていなかった蓮が自然に復活したという。当時の姿を伝える数少ない証人である。

唯一の連絡路だった浮舟橋の跡に架かる橋

 公園内には資料館が建っているが、中に昭和60年の洪水の様子が写真で展示されていた。一夜にして一帯が水に沈んだそうだが、国道180号線以南と高松城は水に浮くような感じで残っており、当時の水攻めの様子に近い状態だったのだろう。また、堤の発掘調査では、文献にある堤の大きさがほぼ正しいことが判っているが、堤がなくてもこのように水没する地形というのが洪水で証明されたことになる。つまり、秀吉が構築した堤は、塞ぐ必要のあった南東部の300mほどが文献にあるような巨大なもので、他はそれほどの大きさではなかったというのが、現在の主流な見方であるらしい。ちなみに、岡山道の開通時に調整池を掘り、側道に沿ってに水路を足守川に繋げている為、今では昭和の時のような一面水に沈むということはないそうだ。

 現在の城跡の公園には、菖蒲や蓮があり、花が咲く季節には花目当てのツアー客も訪れるほど綺麗になるという。水攻めに関しては、城跡だけではなく、堤が僅かながら残っているほか、周囲には吉備津神社吉備津彦神社、高松最上稲荷などの名所旧跡も多く、田園の景色の中、古代から戦国時代を連想しながら、これらを1日掛けてじっくり散策してみるのもなかなか楽しそうだ。

 

最終訪問日:2005/6/16

 

 

戦国時代に戦いがあった城で、最も有名な城のひとつですね。

現在はのんびりした田園と住宅地になっていますが、合戦の時は堤に囲われ、絶望的な感じがあったんでしょう。

それにしても、この城自体を堤で囲んでしまうなんて、秀吉の土木企画力というのは、戦国時代でも突出してますね。