伊賀の地は、戦国時代に至っても大名化した家が存在せず、地侍と呼ばれる小地主が割拠して支配する土地であった。彼らは、生き残るために特殊な技術を編み出し、諸国を歩いて情報を得、時には他の大勢力に雇われて特殊工作を行ったという。それは、山ひとつ越えた甲賀の地も同じで、伊賀流、甲賀流という忍術集団を成した。
だが、甲賀流がほぼ完全な合議制であったのに対し、伊賀では服部、藤林、百地という上忍三家が力を持ち、形の上では惣国一揆という合議制ではあったものの、他の諸家が三家の方針に従うことも多かったようだ。また、基本的に弱小勢力という要素を持つ地侍達には、横の団結というのが非常に大事であることから、甲賀と伊賀は講談や小説などに出てくるような宿敵の関係ではなく、友好関係にあった。
この丸山城は、その伊賀の地侍を支配するために築かれた城である。もともとは、北畠具教が伊賀支配のために天正4年(1576)から築城工事を始めた城があったが、完成はせず、養父同様に伊賀支配を目論んだ信長の次男北畠信雄が、天正6年(1578)に滝川雄利に命じて丸山城の再築を始めた。しかし、完成を目前にした同年10月25日に、伊賀の地侍達によって城を焼き払われてしまい、これに怒った信雄が翌年に伊賀へと侵攻したのだが、伊賀勢得意の山岳ゲリラ戦に持ち込まれて敗退してしまうのである。これを第一次天正伊賀の乱という。
この第一次天正伊賀の乱の2年後の同9年(1581)、今度は信長自ら4万とも6万ともされる大兵力を擁して攻め込み、伊賀勢は約9千の兵力で迎え討ったが、衆寡敵せず、壊滅して滅んだ。これを第二次天正伊賀の乱というが、丸山城はこの時に防衛拠点となったかどうかはよく分からない。
織田氏による伊賀制圧後は、滝川雄利が上野城を築いて伊賀の中心としたことから、城は、乱後すぐか、しばらく後に廃城になったと思われ、機能した期間が短い城であった。
城があるのは、領主谷川と比自岐川が合流して木津川へと流れ込む合流点付近の独立丘陵である。城址碑が建つ本丸は周囲から少し高く、櫓台のようで、本丸から喰い違い虎口を経て1段下には小さな郭を置き、更に1段下に大きな平坦地を設けていた。現在は、この1段下の小さな郭に祠が祀られている。祠の下の大きな平坦地には、かなりの規模を持つ虎口と土塁、堀切があり、そのすぐ下の段にも同じような土塁と堀切が確認できることから、この部分が大手口だったのだろう。本丸からこの辺りまでは、非常に手の込んだ構造である。
また、本丸直下の別方向の峰にも幾段か小郭があったことが判ったほか、尾根筋を城とは逆方向の西に行った場所には貯水タンクのようなものがあり、往時は出丸のようなものがあったのではないだろうか。城の構造は判り難かったが、戦国末期の城らしく、かなり人工的な普請の跡が窺える城だ。
城へは、伊賀鉄道丸山駅から国道422号線を少し南へ行ったところにある消防署から東へ折れ、踏み切りを越えた先の集落から城への遊歩道が延びている。このやや不明瞭な登山道をある程度登ると尾根筋に突き当たり、この尾根筋を右に折れて東へ進めば城跡だ。
最終訪問日:2007/10/24
1997年に訪れた時は、交番にあった付近の地図で発見したんですが、城の場所を確定できませんでした。
10年後の2007年に訪れた時は、地元の人から道を聞いて、最終的にはなんとか辿り着くことができたんですが、城がある小山の周囲を2周ほどしたものの、案内板等も無く、もし場所を聞けなかったら、今回も見つけられなかったですね。
唯一見掛けて道を聞くことができたその地元の方に、本当に感謝したいです!