Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

洲本城 (上ノ城・三熊山城)

洲本城の天守台の展望台と本丸石垣

 一般に洲本城と言えば、三熊山頂にあるこの城と山麓の平地にある江戸時代の陣屋型の平城の2つを合わせて呼び、それぞれ上ノ城、下ノ城と言い分けるが、両者は歴史的に連続しておらず、性格も全く違う為、記事を分けた。この上ノ城と呼ばれる洲本城は、洲本市街の南にある三熊山にあり、三熊山城や三熊城とも呼ばれる。

 洲本城は、大永6年(1526)に安宅治興によって本拠として築かれたが、安宅氏は、元々は紀州熊野の海賊で、清和源氏小笠原流とも、かつて瀬戸内に勢力を持っていた橘氏の流れともいう。鎌倉末期の頼春の頃に熊野に本拠を置いたが、南北朝時代には室町幕府2代将軍義詮から海賊退治を依頼された書状が残っており、この時に淡路島へ進出し、功によって阿波にも地頭職を得て紀伊水道一帯に勢力を誇ったようだ。以降は由良を本拠とし、島内8ヶ所に拠点を置いて一族を配したとされ、そのひとつがこの洲本であった。

 戦国時代、安宅氏は細川氏配下の淡路国人衆として水軍を率いたが、洲本城が築城された頃から内訌が発生して勢力を弱め、後に細川家中で勢力を伸ばして主家を圧倒した三好長慶が、十河家に一存を養子として送り込んで讃岐を固めたように、弟の冬康を安宅家の養子として送り込んだ。淡路の語源は阿波路であるが、三好氏は安宅氏の水軍を得て淡路一国の支配と大阪湾の制海権を握り、本拠である阿波と畿内を結ぶ、まさに阿波路として活用した。

縄張図

 しかし、後に冬康は、松永久秀の讒言によるものか、長慶の心身の衰えによる猜疑心の為か、謀反の疑いをかけられ、永禄7年(1564)に長慶の本拠である河内飯盛城で自害に追い込まれてしまう。安宅氏は嫡子信康が継いだが、この頃から三好政権は瓦解を始め、同11年(1568)に信長が足利義昭を擁して上洛すると、足利・織田政権に従う者と敵対する者に分裂し、信康は信長に従った。

 しかし、天正6年(1578)の信康の没後に安宅家を継承した、弟とも従兄弟ともいわれる清康は、次第に毛利氏寄りに傾いた為、同9年(1581)に秀吉による征討を受け、支城の由良城が落ちると敵わぬと見て降伏開城している。清康は、信長に謝罪の会見をしてすぐ病死したとも、紀伊国安宅に戻って没したともいう。

 開城後、洲本城は秀吉の家臣仙石秀久に預けられたが、天正10年(1582)の本能寺の変の直後には、混乱を衝いた土着の水軍菅達長によって一時占領された。だが、中国大返しの最中に、洲本の土豪廣田蔵之丞に対して秀吉が城の奪回を依頼し、その奪回後は四国攻めの拠点として修築している。現在残っている城の形は、この時の修築に加え、天正13年(1585)の四国征伐後に城主となった脇坂安治による大改修によってであり、壮大な石垣を持つ近世山城となった。

本丸虎口の石垣

 その後、安治は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では東軍に寝返って命脈を保ち、同14年(1609)に伊予大洲へ転封となったが、城は藤堂高虎の預りを経て翌年に池田輝政の三男忠雄が領すこととなり、由良城に本拠を移して廃城となっている。

 慶長20年(1615)の大阪の陣後、阿波の蜂須賀至鎮に淡路一国の加増があてがわれ、筆頭家老の稲田示植が寛永8年(1631)に由良から洲本へ本拠を移し、麓にお居館と呼ばれる御殿を造営した。ただ、この城はほぼ陣屋形式の行政庁舎であった為、山頂の城の遺構をそのままとして万一の時の詰としての機能をある程度残し、拠点としての防御力を担保していたのだろう。

 城の構造は、三熊山山頂に総石垣で方形の本丸を構え、その一角に天守を置き、東に二段郭と水ノ手郭で構成される東ノ丸、南に南ノ丸を構築して、この3郭で長方形となる総石垣の主郭を成していた。さらに、主郭の南東に馬屋、東に武者溜の削平地を配し、西にはやや離れて出丸的な西ノ丸を構築している。全体的には東西の峰筋を城郭化した山城と言えるだろう。

 現在の城跡は、遺構全体が公園として整備され、観光地となっている。最高部の天守台には、城の形をした展望台が建っているが、これは昭和3年に建てられた最も古い鉄筋コンクリートの模擬天守で、当時1万円をかけて建てられたらしい。今から見れば単なる展望台だが、ヘリコプターで資材を空輸することもできない当時としては、山頂に鉄筋コンクリートの構造物を構えるのは大きなプロジェクトだったのだろう。また、夜にはこの天守がライトアップされ、三熊山の良いアクセントになっている。

 その他に往時を偲ばせるものは石垣ぐらいでしかないが、一説には、本拠徳島城は領国の大きさに比べて堅牢な施設が少ない為、有事の際には畿内に近いこの洲本城を拠点として水軍で京大阪に押し出すという秘策が、隠居の身ながら自ら城地の検分をした至鎮の父家政にあったとされ、麓を整備した時に山上の城も増築改修し、後の古城破却の命令にも草木に埋もれさせただけで本格的な破壊はしなかったという。これは、あくまで伝承に過ぎないのだが、それを信じてしまうほどの壮大な石垣ではある。

 

最終訪問日:2003/6/7

 

 

天守の姿をしている展望台からの眺めは爽快で、洲本市内から大阪湾までを一望できます。

本丸跡には売店となぜか高鉄棒があって、96年に訪れた時には何気に蹴上がりをしたのを覚えていますが、2003年に訪れた時はできなくなっていました。

石垣の姿は変わらないのに、人間の老化は早いもんですね。