著名な観光地である桂浜の後背にあった城。
鎌倉時代末期に在地豪族によって城が築かれていたようだが、事績は詳らかではなく、戦国時代に、本山梅慶こと茂宗によって本格的に築城された。築城年代は不明だが、茂宗の父養明が、永正5年(1508)に山田氏や大平氏、吉良氏と連合して長宗我部兼序を討ち、本山氏が土佐中央部に勢力を拡げて以降のはずで、具体的には、朝倉城が築城された大永年間(1521-28)頃か、その少し後だろうか。一説には、天文年間(1532-55)ともいう。
その後、本山氏は、この茂宗の代に西の吉良氏をも討って勢力を拡げ、土佐の豪族の中で最も大きな勢力となった一方、兼序が討たれた長宗我部氏は、その遺児が難を逃れ、土佐国司一条房家の保護を受けていたが、この遺児は後に元服して国親と名乗り、本山氏と和睦して家を再興する。
国親は、着実に周辺を固めて勢力を拡げ、茂宗が没した後に娘婿でもある茂辰が跡を継ぐと、その遺恨と野望を露わにし、本山氏の領地を侵し始めた。そして、永禄3年(1560)5月には、遂に両軍は浦戸からほど近い長浜表で激突する。

この戦いで本山軍は、兵力に勝りながら敗走に追い込まれてしまうのだが、戦の前に長浜城を奪っていた国親は、戦果を拡大すべく浦戸城に攻め寄せたものの、急病を発して撤退しという。
その後、国親は撤退した後も快癒せず、嫡子に本山氏討伐を託して死去した。この嫡子こそ、土佐の出来人と呼ばれ、四国統一を成し遂げた長宗我部元親である。
国親の急病で長宗我部軍が退却した後、周囲から孤立した浦戸城を本山氏は放棄したようで、長宗我部氏が接収し、元親の弟親貞が城主となった。しかし、親貞以降の城主は、はっきりとしていない。
四国統一を成し遂げながら、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐に敗れた元親は、土佐一国に戻された後、天正16年(1588)に、それまでの本拠であった岡豊城から、現在の高知城がある大高坂山に本拠を移した。しかし、河川が集中する高知平野の水害を治めきれず、天正19年(1591)にはこの浦戸城を改修して本拠としている。

この時の城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、出丸で構成され、細長い尾根筋に沿って郭が並べられており、龍頭岬や龍王岬には出丸が伸びていたと推定され、三層の天守も構えられていたという。キリスト教徒弾圧のきっかけのひとつともされる、文禄5年(1596)のサン・フェリペ号事件も、この浦戸城から近い長浜で起こった事件であった。
しかし、長宗我部氏が本拠とした期間は短く、慶長4年(1599)に病没した元親の跡を継いだ四男の盛親は、翌同5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に味方して改易となってしまう。こうして、四国の雄であった長宗我部氏は滅んだ。
この後、土佐藩の初代藩主となる山内一豊が土佐一国を与えられ、弟の康豊を城の受け取りに派遣するが、この時、浦戸一揆と呼ばれる、長宗我部旧臣による立て籠もり事件が、この城を舞台に発生している。

この一揆は、長宗我部氏の上級旧臣の協力もあって鎮圧され、翌年に一豊は無事浦戸城へと入った。だが、城下町の経営を考えた一豊は、後背地の狭さを理由に高知城の築城を開始し、本丸と二ノ丸の工事がほぼ完了した慶長8年(1603)に高知城へと移ったため、浦戸城は廃城となっている。
現在、浦戸城の本丸にあたる詰ノ段は、国民宿舎桂浜荘や坂本龍馬記念館の敷地となっており、全く面影を残していない。
遺構としては、その駐車場の隅にやや盛り上がった天守台が残され、一部を残す天守石垣と城址碑があり、天守跡には小さな祠が建っていた。また、天守台の下には、天守台から伸びていた石垣が移築されているほか、車道沿いの比較的目立つ位置にも案内板があり、石碑も建っている。
とは言え、近世まで存在していた城の跡としては、寂しい限りというのが正直な所だろうか。
最終訪問日:2004/9/10
空港にも愛称として使うほどですし、桂浜と言えば坂本龍馬なんでしょうね。
残念ながら、浦戸城の存在感は、ほとんどありませんでした。