Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大草城

大草城解説板

 知多半島矢田川流域の大野谷は、古くから半島の中でも重要視された場所で、水運の拠点である大野湊があった。このため、明徳年間(1390-94)頃に知多郡分郡守護を獲得した一色氏は、湊を押さえることが可能な山を選び、支配拠点として大野城を築いたという。

 しかし、一色氏は応仁の乱終結する頃に知多郡分郡守護の立場を失ったため、その家臣として入部していた佐治氏の自立を促し、戦国時代には佐治水軍を率いる豪族として大野城を拠点に勢力を蓄えるようになる。

 こうして、規模は小さいながら一角の勢力を持った佐治氏は、勢力範囲の特異性もあって周囲の豪族も一目置く存在となり、尾張守護代を務めた織田氏の中から弾正忠織田家が勃興してくると、これと結んだ。

大草城二ノ丸と奥側に見えるその土塁

 この時、当主であった信方は、信長の妹お犬の方を室に迎えているが、この厚遇は、津島や熱田といった伊勢湾最奥部やそれと接続する川湊を支配下に置く織田氏にとって、出口たる伊勢湾の水軍を持つ佐治氏の存在がいかに大事であったかということを物語っている。

 このように、大野湊は織田氏の姻族となった佐治氏の支配下にあったが、やがて信長の弟で有楽斎の名で知られる長益が大野を領し、水利の悪さを嫌った長益によって、大野城から矢田川を挟んだ反対の北側にこの大草城が築かれ、拠点が移された。

 ただ、長益の大野拝領については、元亀2年(1571)か天正2年(1574)に信方が伊勢長島攻めで討死した後という説や、同10年(1582)の本能寺の変後に甥信雄が尾張を相続した際にその家臣として拝領したという説、同12年(1584)の小牧長久手の合戦後に佐治一成が秀吉の怒りを買って大野を追われた後という説など諸説があり、これに伴って大草城の具体的な築城時期も定まっていない。

二ノ丸と本丸の間の堀は埋められているが窪みがはっきりと残る

 現地案内板によると、本能寺の変以前から大野を拝領していた長益が築城工事を続けたが、本能寺の変などがあって工事はなかなか進まず、天正18年(1590)に信雄が改易された際に秀吉の御伽衆として摂津に2千石を与えられ、大草城は未完のまま廃城になったという。

 その後、家康の九男で、尾張藩主となった徳川義直に小姓として起用された山澄英龍が、義直の子光友の時の寛文6年(1666)に家老として城のすぐ西南に屋敷を構えた。以降、尾張藩は、大草城跡を知多郡の防衛上の要地として山澄家歴代当主に保存させたため、現在のように遺構がよく残ったという。

 城は、矢田川北岸の微高地の丘陵に築かれ、西は伊勢湾が守り、南は矢田川、東は神田川という天然の堀が防御線として機能する城だった。縄張としては、一番南側に方形の本丸、同じ高さで北西側に同じく方形の二ノ丸を置き、その北に三ノ丸があるというシンプルな連郭式の城で、完成後には、恐らく本丸から三ノ丸で丘陵全体を覆う形になったのだろう。

綺麗に整えられた大草城本丸北側の土塁

 また、往時から存在した丘陵上の地蔵院や津島神社も防衛施設として計算されていたと思われ、後背地となる周辺の平野も広く、城下や惣構などの拡張にも対応できる城で、地勢的には非常に良い場所にある城である。

 現在の城は、かなりの部分が大草公園として整備されているため、本丸に模擬天守やグラウンドが造られてはいるが、本丸と二ノ丸の間の堀がほとんど埋まっている以外は、水堀で周囲と区画されている本丸と二ノ丸部分は、ほぼ完全な形で残っていると言っていいだろう。本丸の高さのある土塁、くっきりと形を残す水堀、その外側の三ノ丸へと続く土塁、櫓跡と思われる二ノ丸土塁の方形の隅部など、見所はかなり多く、木々の中をゆっくりと散策するととても心地良かった。また、公園内には遊歩道が整備されており、遊歩道を一巡すると主要な遺構を見学できるようになっているのも親切なところだ。

 大草城は幻の城とも言われるが、言葉とは反対に古城としての存在感は抜群で、戦国時代末期の城を味わいたいなら、是非お勧めの城である。

大草城東側の水堀

 

最終訪問日:2015/5/24

 

 

期待せずに訪れた城でしたが、いい意味で裏切られました。

模擬天守は横に置くとして・・・散策路の雰囲気が抜群で、見所もたっぷりの城です。