Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小丸山城

 能登を与えられた前田利家が、府中と離れた山上にあって経済的発展の望めない七尾城から府中へ本拠を移すため、天正9年(1581)に築城した。

 利家は、織田家の北陸方面軍の軍団長であった柴田勝家に寄騎として従っていたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が横死すると、状況が変化する。

 同年の山崎の合戦と清洲会議を経て、信長の実質的な後継者は勝家と秀吉に絞られたが、利家は、信長在世の頃より、指揮系統上の関係から勝家に従ってはいたものの、個人的には秀吉と親しかった。これが翌年の賤ヶ岳の合戦の際に影響し、利家は突出する形となっていた佐久間盛政が苦戦する中、後詰をせずに単独で最初に退却を始めてしまい、敗戦への流れを作るのである。また、一説には、冬になる前に行われた和議交渉で勝家の使者として秀吉に謁した時に、すでに懐柔されていたともいう。

 この合戦の後、加賀北部を加増された利家は、後の金沢城となる尾山城へと移ったため、兄安勝を七尾城代を兼ねた小丸山城主とし、能登の一帯の統治を一任した。

小丸山城本丸に建つ城址

小丸山城天守

 その後、安勝の後任として、利家の次男である利政が城主となったのは、文禄2年(1593)、もしくは七尾城に一旦入った後の慶長2年(1597)である。父の死後は、分知によって慶長4年(1599)に正式な大名となったが、翌年の関ヶ原の合戦では西軍に属して領国を動かなかったため、改易されてしまった。

 戦後、利政の領地は兄利長に与えられ、この小丸山城には城代として安勝の子利好が入り、その死後は利家の三男知好が名跡と城代職を継いだ。だが、元和元年(1615)の一国一城令で、小丸山城は廃城となった。

 城は、当時円山と呼ばれた丘陵を、小丸山、愛宕山、屋敷山、西光寺山の4つの山に切り割ってそれぞれに郭を築き、御祓川を堀として使えるように掘割を開削して廻らせた城で、東西の川筋と北東の海を防御線とした海港を持つ城である。恐らく、往時は北西方向に武家屋敷などを連ねた外郭が展開されていたのだろう。

小丸山城解説板

小丸山城天守台から本丸の眺め

 また、北西方向の丘陵地は、攻防の際には付城の候補になる地形だが、ここには寺院群を配置して出丸の役割を持たせているほか、本丸には2棟の櫓が建てられていたといい、馬出の地名も残ることから、かなり近世的な特徴を持たせた城だったようだ。

 一国一城令で廃城になった後の江戸時代には、築城時とは違ってそれぞれ本丸、大念寺山、天性丸、宮丸の名称が4つの郭跡に付けられていたようで、現在は、堀切で区画された本丸と天性丸の2つの郭が、小丸山公園として整備されている。

 北西の宮丸には、かつては公民館などがあったようで、現在は忠魂碑が建てられて公園の一部のようになっており、本丸と宮丸の間には相撲場が設けられていた。ここも郭の一部らしく、主郭の間を構成する次段という位置付けだったのだろう。一方で、道路を挟んだ先にあったはずの大念寺山の遺構は、道路開削や御祓川の拡幅、宅地化によって消滅してしまっている。

すっきりとした公園となっている小丸山城天性丸

小丸山城天性丸から見える宮丸の高台

 全体的に言えば、城域は残っているのだが、史跡公園ではなく都市公園としての整備のされ方ため、本丸の2つの櫓台と郭間の空堀以外に遺構らしい遺構が見当たらず、その部分は少し残念だった。

 利家が在城したのは実質2年と少しの期間でしかないが、地元では利家の出世城といわれているという。かつて訪れた時には、そのことが大きく看板として出ていたのだが、その頃の大河ドラマの影響があったのだろう。

 17年経って改めて訪れてみると、以前よりも綺麗に整備されたようで、七尾港や七尾市街を望むことができる展望台も設置されており、かなり清々しい公園となっていた。東麓に大きな駐車場もあり、快適に訪れることができる城跡となっている。また、城跡の雰囲気もより強くなっており、城好きとしては有り難い。

 

最終訪問日:2018/5/28

 

 

最初に訪れた時は、大した案内表示は無く、見落としかねないぐらいでしたが、今では国道沿いに案内表示もあって、アクセス抜群のお城になっています。

堀跡の道を挟んだ向かいの大念寺山の高台や、海の近さ、御祓川の流路など、城としては相当良い立地というのが現地で実感できる城でした。