Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松倉城 (飛騨松倉城)

松倉城本丸上段の城址碑と飛騨山脈の残雪

松倉城本丸南面の石垣

松倉城本丸上段の虎口

 姉小路氏こと三木氏が築いた近世山城。一般には姉小路頼綱(自綱)が築いたとされるが、一説に、その父良頼の代である永禄年間(1558-70)に築かれたともいう。

 姉小路家は、南北朝時代以来の飛騨国司の家系で、飛騨守護である京極氏や、その守護代である多賀氏と長年に渡って対立し、やがて内訌などで三者はそれぞれ衰退していくのだが、京極氏の家臣、あるいは多賀氏の家臣として飛騨に入部した三木氏が、入れ替わるように台頭した。

 その三木氏は、頼綱の父良頼の時代に、三分裂した姉小路家の嫡流にあたる小島姉小路家と結んで他の二家を没落させ、朝廷に運動して古川姉小路家の名跡を継ぐことに成功しており、前述のように、この松倉城の主は、名跡を継いだほうの姉小路氏、つまりは実質的に三木氏であった。

 このように三木氏は、名跡継承によって名実共に飛騨の最大勢力となっていたが、統制自体はいまだ中世的な緩やかなものであったようだ。頼綱は、この統制の強化を目指して家中の反乱の芽を摘んで回り、天正7年(1579)にはそれを内外に示すべく、新たなる拠点としてこの城を築いた。

 ただ、同年中には、家督と累代の本拠である桜洞城を譲った嫡男信綱を謀反の疑いで謀殺しており、家中の統制に成功したとは必ずしも言えない状況であったようだ。また、この謀殺に伴い、再び桜洞城を領することとなり、雪に覆われる冬季は松倉城ではなく桜洞城に滞在したようで、松倉城を夏城、桜洞城を冬城と呼んだという。

松倉城二ノ丸

松倉城搦手門跡

松倉城三ノ丸と西南隅櫓の櫓台

 頼綱の飛騨統一という念願が叶ったのは、天正10年(1582)の本能寺の変後である。頼綱は、織田氏と誼を通じていたが、信長の横死で大混乱している間に、後ろ盾が無くなったと見た奥飛騨の豪族江馬輝盛が高山盆地に攻め寄せたことから、両者による決戦が行われた。この八日町の合戦と呼ばれる戦いは、飛騨の関ヶ原とも呼ばれ、10月26日と27日の両日に行われた戦いは輝盛の討死によって終結し、小島姉小路家の時光がそのまま江馬氏の高原諏訪城を攻め落とした事で、江馬氏は瞬く間に滅んだ。

 こうして、頼綱の飛騨統一は成ったのだが、信長の後継者争いにおいて柴田勝家と行動を共にしていた流れで、越中佐々成政とも協力関係にあり、天正13年(1585)に秀吉の命を受けた金森長近によって攻撃されてしまう。頼綱と次男の秀綱はこれに抵抗したが、頼綱は隠居城であった高堂城で降伏し、秀綱が籠城していた松倉城も家臣藤瀬新蔵の寝返りで火を放たれて落ち、姉小路氏は滅んだ。

 戦後、飛騨を与えられた長近は、治所を鍋山城として松倉城も修築したが、天正16年(1588)に新たに高山城を築いたため、松倉城は廃城となった。

 城の構造は、方形の本丸内郭の西に本丸外郭を張り出させ、本丸の東に二ノ丸、西に三ノ丸を置き、南は南中間櫓という区画を設けて備えとしており、これらの範囲は総石垣である。三ノ丸の西端には隅櫓を置き、それぞれ二ノ丸の東と三ノ丸の西には幾筋かの堀切があった。

松倉城三ノ丸の南面石垣

松倉城の北へ続く段郭

下山の際はカモシカがお見送り

 最も広い稜線がある北東方向は、大きな堀切で断ち切り、その先にも石垣造ではない郭を設けていたようだ。ちなみに、城下や家臣の屋敷は北麓に営まれていた為、この北東の稜線近辺が大手になると思われる。

 現地を訪れてみると、車道が城のすぐ近くまで通されており、峻険な山城にしては非常に楽に訪れることができる城だった。車道から主郭部方向へ歩くと、三ノ丸へ着くまでに2筋の堀切があり、細長い削平地もあることから、往時は城域の一部だったのだろう。三ノ丸の石垣の脇を通って主郭部に入ろうとすると、西端に櫓台を持つ三ノ丸が想像以上の圧迫感を持っており、攻撃されればひとたまりもない印象である。その張り出した部分の東に長方形の二ノ丸が続き、二ノ丸の東端にも空堀があった。

 三ノ丸と二ノ丸の中間北側にある本丸は、内郭と外郭の2段の石垣が印象的で、虎口は狭いながら桝形状の形となっている。本丸からの眺めは抜群で、遠く奥飛騨の山塊までが見渡せ、その残雪から視線を落とすと、緩やかで広い本丸北東側の稜線が見え、幾段かに渡って比較的大きな段郭が構築されている様子が解り易い。石垣造の部分だけを見れば規模は大きくないが、周囲の土の城郭部分を含めれば、決して小さくはない城である。

 

最終訪問日:2017/5/19

 

 

訪れた日は、図面を持ちつつ本丸の石垣を調査する方がおられましたが、その傍らの三ノ丸には、カモシカが当たり前のようにおり、お互いがお互いを気に留めるでもなく、自然に受け入れているようで、なんとも言えず自然体な情景となっていましたね。

訪れた季節も良かったのか、カモシカが印象的だったのか、非常に自然が感じられつつ、その自然の中に人工物であるはずの石垣が違和感なく存在する城、といった感じでした。

カモシカに距離2mで遭遇することは、もう一生無いかもしれませんね笑