Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

諏訪城 (萩原諏訪城)

 飛騨随一の勢力を誇った姉小路氏こと三木氏の居城であった桜洞城に代え、萩原地方の治所として築かれた城。飛騨国内に他の諏訪城があるため、一般には地名を冠して萩原諏訪城と呼ぶ。

 天正10年(1582)に本能寺で信長が横死した後、その後継者争いの中で柴田勝家が滅んでも尚、秀吉と対立し続けたのが越中佐々成政であったが、その成政に加担したのが、念願の飛騨統一を果たした姉小路頼綱(自綱)であった。

 しかし、成政の討伐に本腰を入れた秀吉は、天正13年(1585)に頼綱の討伐を金森長近へ命じ、長近は頼綱に滅ぼされた国人の裔などを道案内として侵攻する。隠居していた頼綱の高堂城や、当主秀綱の松倉城姉小路勢は抗戦するものの、衆寡敵せず、姉小路氏は滅んだ。

 萩原諏訪城は、前述のように姉小路こと三木氏の興隆の城である桜洞城の代わりとして、萩原地方の治所として築かれた。その際、元にあった諏訪神社遷座して築城したことから、それが城の名になっている。

諏訪神社の鳥居と城址

萩原諏訪城本丸石垣

 築城者に関しては、金森長近によるとの説と、その姉婿佐藤秀方が築いたという説があるが、秀方は、一部の史料には長近の家臣とはあるものの、立場的には長近とは同格であり、実際、後の慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際には、子の方政が長近とは別行動を取っている。つまり、秀方が長近の与力であった可能性はあるが、築城以降も独立的に動いており、萩原諏訪城の最初期は、厳密には高山城の支城という目的があったわけではなく、独立した治所として秀方が築いたと考えるほうが妥当だろう。また、一説に姉小路氏時代から既に在ったという説もある。

 その後、秀方の子方政は、前述のように関ヶ原の合戦で西軍に属して改易され、この城は東軍に属した金森氏に与えられてその属城となった。以後の城代は不明だが、元和元年(1615)の一国一城令後も旅館と称して温存されている。しかし、元禄5年(1692)に金森氏が出羽上山藩へ天封となったため、同8年(1695)に、元は増島城だった古川旅館や本拠であった高山城などと共に、この旅館も破却された。

萩原諏訪城解説板

本丸と二ノ丸の間の空堀

 城の構造は、飛騨川の河岸段丘の崖に面して方形の本丸を築き、東から南にかけて二ノ丸、三ノ丸が続くという、飛騨地方特有の居館形式の城を近世城に仕立てたような縄張だったようだ。ただし、現地には本丸の縄張図しか無く、二ノ丸や三ノ丸も学校用地や住宅地になっており、城全体の正確な縄張はよく分からなかった。

 現在の城跡は、江戸時代中期に諏訪神社が戻って来てその境内となっており、飛騨萩原駅からも近く、非常に見つけ易い。

 遺構としては、本丸の堀が明確に残り、石垣もかなりの部分が残っているが、東側入口の石垣は野面積ではなく後世の谷積で、弧を描いて築かれている上、本来は虎口が無かったようなので、この部分や神社に近い部分は、諏訪神社が戻って来た際に築き直されたものだろう。

内堀に架かる諏訪神社への橋と本丸石垣

搦手は鉤状に曲げられ高低差を持った石垣になっている

 大手は南側で、その先は高低差も少なく緩やかに繋がっているが、残念ながら、二ノ丸跡地にあたる神社入口や中学校付近には、城の痕跡はほとんど見られなかった。西側の搦手は、現在は神社裏口の階段となっているが、石垣の様子を考えると、現在の階段よりももっと鈎状にしっかり曲げられた、もう少し大きな虎口だったと思われる。この辺りが最も城らしい構造を残しているのではないだろうか。

 全体的には、河岸段丘を利用した崖城で、川に沿って盆地盆地で分かれる飛騨らしさを感じることができる城だ。中世の飛騨は山城がほとんどで、この諏訪城のように川沿いに城が造られるのは戦国時代終盤になるのだが、織豊系の証である石垣がよく残されており、近世的な雰囲気が色濃く残る城である。

 

最終訪問日:2017/5/19

 

 

城跡は、杜が深い諏訪神社の境内になっていますが、明確に本丸の石垣と内堀が残っていて、見応えがあります。

本丸と二ノ丸の間を画していた空堀もいいですね。

古城然としていて、雰囲気が素晴らしいお城です。