Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

金沢城

 言わずと知れた加賀藩100万石の領主前田氏の居城。

 金沢城の前身は、尾山御坊や金沢御堂と呼ばれる寺院城郭で、この創建は天文15年(1546)とされる。戦国時代の加賀は、長享2年(1488)に守護富樫氏を倒した一向衆や地侍層が支配しており、百姓の持ちたる国と呼ばれていたが、この尾山御坊は、その一向衆の重要拠点として創建されたものであった。

 この御坊は、東に浅野川、西に犀川を天然の堀として配した小高い丘の上に築かれていることから、宗教拠点と軍事拠点を兼ねていたことは一目瞭然である。ちなみに、一向宗法主は、加賀一国を支配しながらも摂津の石山本願寺に在り、この尾山御坊を本拠にしたことはない。

 加賀を支配した一向宗は、隣国の能登越中、越前に強い影響力を持っていたため、それぞれの国の支配者層と対立し、特に朝倉氏や後に上杉の名跡を継ぐ越後長尾氏とは激しく対立して幾度も討伐を受けた。

金沢城二ノ丸の菱櫓と五十間長屋、橋爪門続櫓

現存する金沢城石川門と二重櫓

 だが、戦国末期になって信長が台頭してくると、元亀元年(1570)に石山本願寺からの退去を要求されたことによって激しく対立し、同じく信長と対立していた朝倉氏や上杉氏とは和睦して共闘するようになる。しかし、朝倉氏が滅び、上杉氏も謙信没後の混乱で勢力を衰えさせると、天正8年(1580)にはついに柴田勝家の家臣佐久間盛政によってこの尾山御坊を落とされ、加賀の一向一揆は瓦解した。

 盛政は、寺院城郭だった尾山御坊をそのまま利用して城に改修し、居城としたのだが、この時に金沢城へと改称している。

 その後、天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦の際、勝家に従って出陣した盛政は、大岩山の中川清秀を討つ功を挙げたが、撤退が遅れ、美濃から駆け戻った秀吉本軍の逆襲によって勝家軍敗北の端緒を作ってしまい、戦後に捕えられて斬首された。

 盛政に代わって金沢城に入ったのは、賤ヶ岳の合戦で盛政と同じく勝家の陣中にありながら、早めに撤退を開始して間接的な敗因を作り、戦後は秀吉に降った前田利家である。利家は、加賀北部2郡を加増されて能登小丸山城から居城を移し、尾山城という名を付けたのだが、後に金沢城を正式名称とした。

往時は滝となっていた色紙短冊積石垣

金沢城河北門と右に見える菱櫓

 その後、同12年(1584)の小牧長久手の戦いでは、利家は越中佐々成政を撃破するなどの功を挙げ、個人的に秀吉と親しかったこともあって、豊臣政権の重鎮として遇されるようになっていく。

 だが、慶長3年(1598)の秀吉の没後、政権を支えるべき重鎮の立場にあった利家は、その翌年に没してしまい、結果、武断派文治派の対立と家康の独善を許してしまう。そして、前田家もまた、政権奪取を狙う家康の最大の障壁としてその標的となったが、子の利長は家康に臣従することを選び、結果的に江戸期を通じて前田家は生き残ることができた。そして、金沢城も加賀100万石の居城であり続けることができたのである。

 金沢城の本格的な築城が始まったのは、天正16年(1588)とされ、その当時に前田家の預かりとなっていた高山右近重友が縄張をしたという。この時、西丁口から尾坂口へと大手が改められて城の原型が形作られ、初期には天守も建てられていたが、残念ながら天守自体は慶長7年(1602)の落雷で焼失し、再建されることはなかった。また、この頃の城は、現在ほど大きな規模の城ではなかったらしい。

金沢城本丸辰巳櫓跡直下から見る4段になっている石垣

現存する金沢城三十間長屋

 その後、寛永8年(1631)の火災によって建物の多くが焼失した際、二ノ丸の拡張などで現在の城の構造へと大きく改変された。その後も幾度かの火災に遭い、天守焼失後にその代わりとなっていた三階櫓も宝暦9年(1759)に焼失して再建されず、明治4年(1871)に兵部省の管轄となった後も、同14年に櫓などが火災で失われてしまうなど、常に火の災いに付きまとわれた城でもあったようだ。

 このような度重なる火災の結果、現存するのは三十間櫓と石川門だけになってしまってはいるが、公園整備の際に再建された建物も含め、積雪に耐えるよう鉛瓦が使われ、建物の壁も腰回りをなまこ壁が囲うという、北国独特の風貌漂う城である。ちなみに、三大庭園のひとつである兼六園は、加賀藩主の庭園で、5代綱紀の時にその原型が造られ、11代治脩が再興、12代斉広の時に命名されたものという。

金沢城の最初期の時代のものとされる東ノ丸北面の石垣

金沢城兼六園の案内図

 城の構造は、丘陵最高部の本丸を南端に取り、その北西に1段下がって二ノ丸、北東に2段下がって三ノ丸を置き、二ノ丸と三ノ丸の北東側に更に1段下がった新丸があった。水堀は、これら二ノ丸、三ノ丸、新丸の区画としてあり、本丸と二ノ丸は高低差のみとなっている。二ノ丸の西には庭園のある玉泉院丸が高低差を持って置かれ、その先の今の尾山神社付近に水堀を介して金谷出丸を置いていた。ちなみに、兼六園は本丸の南東方向、百間堀を介した先に造られている。

 城域は、第二次大戦後から平成6年(1994)まで金沢大学のキャンパスとして使用され、その後に公園として整備された。なんと言っても見所は、菱櫓から五十間長屋、橋爪門の一連の建築物と、意匠があちこちに見られるカラフルな色紙短冊積と呼ばれる石垣だろうか。この辺りは、北国の風情と加賀らしい優雅な遊びが感じられ、非常に特徴的である。

 このほか、各時代時代の石垣の特徴も際立っており、石垣の資料館と言っても過言ではないほどだ。個人的には、築城時の無骨さを残す東ノ丸北面石垣と、明治期にかなりの改変がされているものの本丸南面の石垣が非常に印象に残ったが、他にも見所がかなり多い城でもあり、非常に満足できる城だった。

 

最終訪問日:2018/5/27

 

 

最初に訪れたのは、金沢大学が転出した直後で、工事中ということもあって石川門までしか入れませんでした。

時を経て、すごく立派になった金沢城を見て、感動しましたね。

これだけ本格的に復元してくれているのは、有り難い事です。