Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松任城

 松任城の築城者には諸説あるが、現地の年表には、加賀介近藤師高が平安時代末期の安元2年(1176)に館を築いたのが最初とある。

 この加賀介近藤師高は、加賀守であった藤原師高のことで、平家物語にも登場し、鹿ヶ谷事件に連座して討たれる人物なのだが、安元元年(1175)末に加賀守に就任した後、翌年夏に弟師経を目代として加賀に派遣しており、加賀には入国していない。つまり、館を実際に築いたのは弟の師光だったと考えられる。

 この兄弟は、非常に傲慢であったとされ、荘園の没収などを思いのままに行ったほか、師経は比叡山の末寺である加賀の鵜川寺と争いを起こし、これが叡山の強訴へと繋がり、兄弟の父西光が後白河上皇の近臣であったことから、延暦寺と院方の対立へと発展していく。そして、後白河法皇によって延暦寺への攻撃が命じられ、攻撃直前に鹿ヶ谷での平氏打倒の謀議が発覚し、院の近臣が一掃された前述の鹿ヶ谷事件が起こるのである。

 師経没落後の城には、少し経った寿永2年(1183)に松任範光が入り、4代に渡って在城したとされ、一説には城はこの範光の築城ともいう。松任氏は、富樫氏や林氏ら他の加賀の豪族と同様、藤原利仁流を称する土着豪族で、松任一帯の開発領主であった。

 現地年表には、同年に北陸方面から上洛していった木曽義仲に味方し、城代になったという倉光成澄の名も見える。前述の松任氏との関係や、上洛時の城の所有は誰だったのかといった詳しい事跡は不明なのだが、倉光氏は、松任氏らと同じ利仁流藤原氏で、松任市街のすぐ南にある倉光あたりを開発した領主であり、義仲に従って一時的に松任城を任されたのかもしれない。

松任城址公園にある松任城本丸址の碑

 松任氏が城主だった鎌倉時代初期以降、城は歴史上に登場せず、次に見えるのは戦国時代である。

 戦国時代の加賀は、守護富樫氏を倒した一向一揆自治をしており、百姓の持ちたる国と言われた。百姓といっても江戸時代とは違い、武力を持った土豪地侍層のことで、一向宗を介して有力寺院と結びつき、緩やかな連合体を成していたというのがその実態である。そして、松任城には長享年間(1487-89)に有力な土豪鏑木常専が入ったとされ、以降、頼信、勘解由と3代に渡って松任組と呼ばれた集団を成して在城したという。ただ、90年余で3代というのは少なく、史料に登場しない城主が居た可能性も考えられる。

 頼信が城主だった天正5年(1577)、能登を平定した上杉謙信が加賀討伐に乗り出し、国内諸城を次々と降していったが、この松任城だけは包囲されても落ちず、謙信は領地を安堵して頼信と和睦し、織田軍に備えて松任城に陣したという。

 一方、越登賀三州志やそれを引用した石川郡誌では、攻城を同3年(1575)のこととし、3日に渡って頼信は奮戦したが利あらず、子と共に自刎したとある。またこれとは別に、同4年(1576)に叛意ありとして頼信が七里頼周に討たれたとする説もあり、史料によってかなり違う。前後の状況から、天正5年攻略の説が正しいようだが、謙信が松任城に在城した直後の手取川の合戦の信憑性を含め、この頃の加賀の史料には混乱が見られるようだ。

松任城の櫓台跡と見られる公園内の僅かな盛り上がり

 天正6年(1578)の謙信病没後は、加賀平定を進める織田家臣の柴田勝家により、松任城が天正8年(1580)に攻略され、これによって一揆勢の拠点は山内衆の鳥越城周辺のみとなっていたが、山内衆は激しく抵抗し、攻略は難航した。

 この年、織田家顕如の間では和睦が結ばれていたが、これを理由として勝家は鳥越城に籠もる一揆勢に和睦を呼びかけ、これに応じて松任城を訪れた鈴木出羽守や若林長門守など頭領19名を謀殺する。これにより、頭領を失った一揆勢は組織的な抵抗力を失い、加賀の一向一揆は滅んだ。

 一向一揆が掃討された後、松任城は徳山則秀に与えられ、天正10年(1582)の本能寺の変後はそのまま勝家の家臣となり、翌年の賤ヶ岳の戦いでも佐久間盛政に属して奮戦した。

 戦後、松任は勝家陣営に在りながら戦わずに撤退した前田利家の子利長に与えられた後、秀吉の直轄領として代官寺西秀則が治め、同15年(1587)には丹羽長重に与えられている。

 長重は最初、九州征伐での家臣の軍律違反で松任4万石に減封されていたのだが、慶長3年(1598)に12万石に加増されて小松城に移り、小松宰相の異名を取った。しかし、この時に松任領に加える形で加増したのかは不明で、同5年(1600)に北陸の関ヶ原として利長と戦った浅井畷の戦いにも松任城は登場せず、長重が城を所有したままであったのかなどはよく分からない。

松任城の鳥瞰推定図と諸元

 関ヶ原の合戦後、西軍に属した長重は改易となり、家康に味方した利長は大幅に加増され、松任も前田領となった。利長は、松任城に城代として赤座直保を配置し、統治にあたらせ、直保が事故死した後は子永原孝治が知行と城代職をそのまま継いでいる。そして、元和元年(1615)の一国一城令に先駆け、その前年に城は廃城となった。

 城の構造に関しては、現地に鳥瞰図があったものの、全容を把握できるような図にはなっておらず、方形の城の周辺に寺院と出城があったことが判るのみである。

 主要部の大きさを案内板から拾っていくと、南北に長い長方形の本丸周囲に幅20m弱の内堀があり、その外側に二ノ丸と三ノ丸を置いて、ほぼ300m四方の外堀で囲っていたようだ。ただ、二ノ丸と三ノ丸がどのように本丸と連絡していたか、また、外堀や内堀とどのように接していたかなどは、図や現地の様子からはちょっと判らなかった。

 現在の城跡は、松任駅前に整備された公園となっており、遺構と呼べるものはほとんど無い。公園内の南部分に緩やかな盛り上がりがあり、それがかつての櫓台跡だったかと想像することができるほか、かつて僅かに残っていた石垣列の場所に低い石垣が整備されている。その他では、一部、土塁跡かと思われる部分もあるのだが、公園造成の際に出来たものかも知れず、遺構かどうかの判断はできなかった。

 廃城時期が早く、また、駅前ということもあって、地形の改変が大きかったのは仕方の無いところで、今は駅前の木陰が涼やかな公園として城域は活用されている。

 

最終訪問日:2012/5/13

 

 

城跡ではありますが、仕事の昼休みにお弁当を食べたい公園という印象が強かったですね。

ごくごく入門用のお城なのかもしれません。

非常に爽やかな場所でした。