Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

北方城

入り組んだ住宅地の中にある北方城址

 西美濃三人衆のひとりに数えられた、戦国時代の武将安藤守就の居城。

 安藤氏の出自は明確ではないが、藤原秀郷の流れである伊賀氏の出とされる。伊賀氏は、鎌倉時代初期の朝光の時に伊賀守の官名から名乗りを変えた家で、朝光は稲葉山城を最初に築城した二階堂行政と繋がりがあったともいう。これが正しいならば、相当古くから美濃に基盤を持っていたということになる。

 北方城を築城したのは、守就の祖父か曾祖父とされる伊賀光就という。伊賀氏は、その名の元である伊賀守を代々称していたといい、守就も伊賀守を名乗っているが、名字を安藤に変えたのは守就からともいわれる。だが、守就自身については、父親の名が複数伝わっているほか、大野郡から移ってきたという説もあり、西美濃の実力者であった割に輪郭についてあいまいな部分が多い。

 出自などはともかくとして、守就は最初、土岐氏に仕えていたようだが、斎藤道三が守護の土岐頼芸を追放した後は道三に仕え、弘治2年(1556)の長良川の合戦の際には、道三の子とされる義龍に味方して道三の敗死に追い込み、戦後は義龍に仕えた。しかし、その子龍興とは折り合いが悪かったようで、娘婿の竹中半兵衛重治が龍興への諫言の意を込めて少人数で稲葉山城を乗っ取った際には、これを支援したという。

 その後、永禄10年(1567)の信長の美濃侵攻に際しては、調略を受けて信長に味方し、以降は美濃衆として信長の天下経略に参加した。しかし、天正8年(1580)に守就の嫡定治が甲斐の武田氏に通じたとして信長の勘気を受け、武儀郡への蟄居に追い込まれてしまう。

 その2年後の天正10年(1582)6月、本能寺にて勘気の大本である信長が横死した。この時、守就ら安藤一族は、混乱に乗じて北方城で挙兵したが、北方城を継承していた稲葉一鉄良通の攻撃を受けて落城し、守就・定治父子以下一族のほとんどが討死、あるいは自害したという。

 この敗戦時には、守就の弟郷氏も討死しているが、その子可氏は落ち延び、郷氏の室が山内一豊の姉だったことから、一豊に仕えて安藤の血を残した。可氏は、一族衆として山内の名字を与えられ、後に土佐国宿毛6千8百石を領し、維新に至ったという。

 北方城は、長良川揖斐川、その支流根尾川に挟まれた平地にあり、石垣の無い土居城の平城で、中世の居館を拡張したものだったようだ。その広さは3町四方の方形で、北側の真ん中90m×120mの領域が本丸であったらしい。また、城自体は、守就が蟄居した時点ですでに空城になっていた可能性があり、安藤氏滅亡時の落城と荒廃で、完全に廃城になったと思われる。

 城跡は、住宅地と田園の中に埋没しており、見つけるのに非常に苦労した。訪れた時は、名鉄揖斐線北方東口駅を南に越えてすぐ西に折れ、住宅地の中を探したのだが、目印だった北方東口駅も廃線で無くなってしまっており、現在は北方(森町)の交差点名が目印になるだろうか。城跡周辺は道が狭いので、徒歩で散策したほうが無難だろう。

 ようやく辿り着いた城跡には、遺構は見当たらなかったが、土佐藩に仕えた可氏の子孫が明治政府に対して挙げた功績によって建てられたという石碑と、僅かに立っている案内板が、当時の様子を伝えていた。遺構としては寂しいが、近世にも5千石の北方陣屋が城跡の一部を利用して構えられており、改変しやすい平城でもあったことから、形を残しておく状況ではなかったのだろう。

 

最終訪問日:2002/11/13

 

 

学生時代に付近まで来たんですが、縮尺の大きい道路地図では、こんな狭い道の住宅地にある城跡に行くなんて、無理ゲーでしたね。

2002年に訪れた時も、まだGoogleMapが一般的じゃなかった時代だったので、我が事ながら、よく辿り着いたなと思います。

道具が無いなら無いで、何とかするもんですね。