Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

枝吉城

 名族赤松家の老臣であった播磨の豪族明石氏の居城で、築城は南北朝時代か、応仁元年(1467)からの応仁の乱の頃と見られる。城名は、シキツとする本もある一方で、現地の住所はエダヨシと読み、双方の読み方の説があるのだが、城が在った当時に呼ばれていた名は、明石城である。

 明石氏は、明石国造の末裔で、明石郡大領の流れとも、村上源氏赤松氏流ともいわれ、鎌倉幕府室町幕府の役職にも明石を名乗る武将が就いているが、この枝吉の明石氏の祖であるかははっきりしない。その後、室町期には赤松氏に従い、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱での赤松惣領家滅亡を経て赤松政則が家を再興すると、その再興や応仁の乱での旧領回復に活躍し、初代城主ともいわれる尚行や子の祐実は赤松家中で老臣的な地位となった。

 だが、応仁の乱後の山名氏との激しい争いで、政則に近かった別所氏が台頭して東播磨8郡の守護代になると、明石氏はその下風に立たざるを得ず、戦国時代になると別所氏には就治という武勇に秀でた当主が出て更に興隆し、明石氏は衣笠氏や間島氏といった周辺豪族と離合集散しつつ勢力拡大を図ったが、その影響下からは脱し切れなかったようだ。

 また、明石氏は、この城を居城とした枝吉明石氏と、伊川荘を領した高畑明石氏に分かれていたようで、後に合一してこの枝吉城が惣領家の本城となった。ちなみに、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後に家康が行った「明石狩り」で有名な明石全登は、備前に移った一族の末裔である。

大幅に削られている枝吉城本丸と城址

 東播磨の最大勢力となった別所氏は、戦国中期に三好氏と対立しているが、明石氏も天文23年(1554)から翌年にかけて播磨に侵入した三好長慶と戦って敗れた事が見える。これは、長慶が、自立的な動きをする別所氏や明石氏を牽制したい赤松晴政と誼を通じ、その依頼で播磨に侵入したという背景があったようだ。敗れて以後は、三好氏の命で永禄9年(1566)に松永久秀の摂津滝山城を別所氏や周辺諸氏と共に攻撃するなど、三好家の陣触れに従う存在となってしまい、中央での合戦にも駆り出されている。

 三好氏に代わって織田氏が播磨に勢力を伸ばしてくると、当主であった則実はこれに従い、天正6年(1578)からの三木合戦では、周辺豪族が別所氏に従う中、当時小寺を称していた黒田官兵衛孝高らと秀吉軍に投じた。これについては、孝高の母が則実の曾祖父である正風の娘、つまりは大叔母であり、その血縁関係が則実の選択に影響したことは間違いないだろう。

 天正10年(1582)の本能寺の変後、天正13年(1585)に則実は豊岡に移封となり、明石氏による明石郡支配は終わりを告げた。代わって高山右近重友が高槻から6万石で入部したが、重友は入部1年で南の海際に新たな明石城である船上城を築き、それに伴って城は廃城となっている。ちなみに、則実は豊臣政権樹立後も大名であったが、豊臣秀次連座して改易となってしまい、その庶流は姻戚であった黒田家に仕えたり、明石郡で帰農したという。

枝吉城解説板

 城は、明石川左岸の舌状台地の先端に築かれた崖城で、現在の神本神社が建っている付近に居館があったといい、その背後に詰の城があった。この詰城は本丸と二ノ丸を持ち、三木城と同様に詰城の台地南側の部分は人工的に張り出しをもたせていたことが判っているほか、居館の前面には水堀を穿ち、西側には城下町が広がっていたという。

 ただ、本丸があった台地は、神社の背後に一部を残してはいるが、本丸の西側の大部分と、堀切を挟んで北にあった二ノ丸は、宅地造成によって削平され、全く残っていない。台地部分を散策すれば、中腹の小郭や土塁の跡と思われる僅かな土盛りなどを見つけることもできるのだが、往時の規模から比べると、やはり物足りないというのが正直な感想だ。それ以外では、付近に城下町や寺の名残と思われる地名が残っているのが、城があったということの名残である。

 本丸と二ノ丸の間にあった堀切を利用したと考えられる道は地元の主要幹線で、道沿いに多くの店舗があり、買い物ついでに寄ることができる城である。ちょうど神本神社の秋祭りの日に訪れたことがあるが、宅地造成の際に出土した遺物を保管している吉田郷土館は、祭りの人で溢れていた。この郷土館には、城に関する展示が殆ど無いのが残念なのだが、神社前面の広い道は水堀の跡で、周辺の狭い路地も当時の町割りをそのまま使っており、古城の趣を感じることができる。城は近世直前に役目を終えたのだが、その名残を探せば、現代まできちんと生き続けているというのが面白い。

 

最終訪問日:2024/1/24

 

 

個人的には、明石城と並んで地元の城!という感じがする城ですね。

城跡を幹線道路がぶち抜いてるというのもあって、遺構がたくさん残っているわけではないですけど、神社の境内地の一角なので古城の雰囲気は残っています。