Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

韮山城

 伊勢盛時こと、北条早雲が本拠とした城。

 韮山城の築城は室町時代で、堀越公方足利政知重臣外山豊前守が文明年間(1469-87)に築いたとされる。城から狩野川沿いの堀越御所までの距離は、1kmちょっという近さで、立地的に考えて、豊前守は政知に信頼されていた武将だったのだろう。

 政知は、延徳3年(1491)に病死し、その3ヶ月後に、政知の長子茶々丸が後継者であった次子潤童子とその母を殺害して強引に家督を継ぐのだが、豊前守は後にこの茶々丸によって誅殺された。謀殺の理由は明確ではないが、城と御所の関係から、政知の意向を理解していたと考えられる豊前守が、政知の意向に反した茶々丸に素直に従ったかどうかは疑問の残る所で、両者の間で政治的な何事かがあったように思われる。

 この豊前守や秋山新蔵人の誅殺は、奸臣の讒言を信じて忠臣を討った茶々丸の愚かさを伝える逸話となっているものの、もっと深い政治的対立が透けて見えるのだが、実際はどうだったのだろうか。

 茶々丸が強引に家督を継いだ後、幕府はこれを黙認したようだが、京で出家していた茶々丸の異母弟清晃が、明応2年(1491)の明応の政変によって11代将軍義澄として擁立されると、伊豆にもその影響が及んでくる。潤童子の母は義澄の母でもあり、茶々丸は、将軍の生母殺害を問われることとなったのだ。

 こうして同年かその前後に早雲の伊豆討ち入りが行われ、早々に茶々丸は御所を落去し、韮山城も早雲のものとなった。ただ、当時の韮山城に誰が在城したかは不明で、豊前守誅殺の後に茶々丸と近しい武将が城主となったのか、それとも空城となっていたのか、詳細は知れない。

韮山城案内板

韮山城本丸から富士山の眺め

 早雲の伊豆入りは、戦国時代の幕開けとも言われる。それは、素浪人の早雲が堀越公方という旧勢力の混乱に乗じて伊豆一国を奪ったとされたからであった。しかし、かつての素浪人説は否定され、早雲は幕府政所執事伊勢氏の庶流備中伊勢氏の出ということがほぼはっきりしており、家臣に備中出身の姓が見えるなど、その傍証も多い。

 その伊勢氏には、いくつかの系統に分かれているのだが、伊勢平氏説のほか、藤原氏伊勢国造の末裔という説もあるという。早雲が出た系統の伊勢氏は、鎌倉時代には足利家臣として守護代などを務めたことが見えるように、比較的身分の高い武士の系統であった。

 早雲自身は、9代将軍義尚に仕えた幕臣であり、父盛定も将軍申次を務めた武将で、政所執事伊勢貞親の補佐役でもあり、一説に貞親の父貞国の娘が室であったという。つまり、早雲は政所執事の甥でもあるれっきとした高級幕府官僚で、早雲が生涯伊勢氏を名乗っていたのは、出自が当時の名門伊勢氏ならば、当たり前の話と言える。

 早雲は、伊豆入りから5年掛けて伊豆を統一した後、相模にも進出し、小田原城も奪取したが、小田原城には嫡子氏綱を置き、自らは韮山城を本拠とし続けた。

 北条氏の居城として名高い小田原城であるが、北条を称したのも、小田原城を本城化したのも氏綱であり、早雲ではない。早雲自身は、今川氏や幕府との関係が深すぎたこともあったのか、明確に戦国大名を志向したのは子の氏綱の代であった。

韮山城二ノ丸に残る土塁

韮山城本丸の南側にも郭がある

 永正16年(1519)の早雲の没後は、子の氏時が城主を務めたともいうが、基本的には北条本家の直轄の城だったと思われ、永禄年間(1558-70)末には氏綱の子氏康の五男氏規が入り、韮山衆を率いたという。また、城も伊豆支配の拠点として改修され、東の天嶽の頂上に天ヶ岳砦を築き、各尾根の突端に和田島砦、土手和田砦、江川砦を築いて防備が固められた。そして、永禄12年(1569)には、武田信玄の侵攻に対し、氏規が城外で戦って撃退している。

 だが、天正18年(1590)の小田原征伐では、氏規率いる籠城兵約3千6百に対し、織田信雄率いる秀吉軍は4万4千にも上り、緒戦はうまく撃退したものの、その後は包囲戦となったために手も足も出ず、約3ヶ月の籠城の末に氏規と旧知だった家康の説得で開城した。小田原城開城の10日余り前のことである。

 氏規はその後、小田原城開城を説得し、兄氏政、氏邦の切腹介錯を務め、追い腹を切ろうとしたが、徳川家臣井伊直政に止められて果たせなかったという。後に氏規は氏直と共に赦され、氏直の早世によって嫡子氏盛が宗家を継いだため、氏規の系が狭山藩主として血脈を伝えた。また、韮山城は家康の関東移封に伴って内藤信成が城主となったが、慶長6年(1601)の転封によって廃城となっている。

 韮山城本体は、伊豆箱根の山塊の東側にある独立丘陵に築かれ、北から三ノ丸、権現郭、二ノ丸、本丸と配されていた。そして、西麓には御屋敷という居館部分を設け、その西側には二重の水堀があったという。だが、城の規模はそれほど大きくなく、本丸もかなり小振りで、大規模な防御設備というものも見られず、拠点というには心許ない。

韮山城三ノ丸へ続く虎口の桝形

韮山城権現郭の虎口の桝形

 現地で散策すると、小田原征伐時の3千6百という籠城兵力が規模に比べ過剰に思えるほどだが、この城の肝は周囲の砦にあり、特に江川砦と土手和田砦が重要で、本城西側の水堀がそのまま江川砦と土手和田砦まで繋がっていたという。つまり、韮山城よりも高い天嶽を東の壁として、その尾根筋を防御線に取り込み、全体で韮山城として機能していたわけである。

 現在は、城の御屋敷と呼ばれる部分が韮山高校となり、三ノ丸もそのテニスコートとなっているが、他の部分は土塁や堀切などがしっかりと残っており、三ノ丸東側や権現郭東側の桝形虎口も明瞭だった。

 ただ、本丸の南側には、武者走りのような土塁状の通路を経て、その先に四方が土塁に囲われた小さな郭と、続いて二方が土塁となった郭があるのだが、本丸後方を防御する感じでもなく、なんだか不思議な空間となっている。絵図では、塩蔵がここなのか、それとも西麓側の場所なのかはっきりしないのだが、本丸と直通するだけに、何か特別な施設でもあったのだろうか。本丸と高さも違わず、本丸から独立させている理由がよく分からなかった。

 韮山城周辺は道が狭く、車の場合は、東の城池付近に止めることになると思われるが、地図を見ると、水堀跡を利用したと思われる用水路が江川邸から韮山高校前を通って土手和田まで続いており、これらを辿って徒歩で散策するのも楽しそうだ。また、韮山中の脇から城池への道は韮山城と天嶽の砦群を分ける堀切の跡を利用しており、そこから天嶽へ入ることもできるようだが、整備された道は無いらしい。

 

最終訪問日:2013/5/19

 

 

言わずと知れた北条早雲の出世城。

司馬遼太郎の「箱根の坂」を読んだ人間としては、やっぱり感慨深かったですね。

ここから北条氏5代100年が始まったのかと。