中讃の豪族羽床氏の居城。
羽床氏は、藤原氏流といわれ、平清盛の義母池禅尼の従兄弟にあたる藤原家成が、保安元年(1120)に讃岐国司として下向し、綾大領貞宣の娘との間に、章隆を儲けた事に始まる。
章隆は、祖父の地盤を継いで綾大領となり、藤太夫を称したが、その子資高が、治承年間(1177-81)頃に羽床の荘司となり、下羽床に住んで地名を名乗ったのが、羽床氏の最初という。
この資高の四男は、源平合戦に活躍した新居資光であり、さらに新居氏から香西氏等が出たことから、羽床氏は、讃岐藤家の嫡流にあたると言え、やがてこれら讃岐藤原氏一党は、讃岐藤家六十三家と呼ばれ、大きな勢力となっていく。
しかし、羽床氏がずっと惣領であったかと言うと、そうではなく、承久3年(1221)の承久の乱の際に後鳥羽上皇に与したことで、幕府から追及され、これとは逆に、資光の子とも孫ともされる資村が、幕府に従った恩賞として香川郡と阿野郡を与えられたことにより、羽床氏は惣領の地位から転落してしまう。こうして、資村は香西氏を名乗って惣領となり、羽床氏は香西の下風に立たざるを得なくなった。
元弘元年(1331)より始まる元弘の乱では、当主政成が、楠木正成の籠る千早城攻めに一番乗りの功を顕しているが、その子政長は、勇名を馳せた羽床七人衆を率いて南朝に与しており、その結果、後に管領細川氏配下の四天王とまで呼ばれた香西氏に対し、大きく遅れを取ってしまうこととなる。
それでも、大きな2度もの没落しかねない状況を乗り越えており、生き残りを賭けた必死の模索があったのだろう。そして、応仁元年(1467)より始まる応仁の乱では、細川方として参陣していることが見え、未だ相応の勢力として認識されていたようだ。ただ、身分的には細川氏の家臣であったと思われるが、戦国末期の香西家臣的な立場を考えると、この頃からすでに香西氏の与力的立場にあったのではないだろうか。
戦国時代に入ると、羽床氏の動向は不詳となるが、天正年間(1573-93.1)初期の頃の当主は資載といい、伊豆守としてよく史料に登場する武将で、同族香西氏の幼主香西佳清をよく支えたという。
佳清は、幼い頃の陣中での病により失明してしまい、後にはそれが原因で家中が割れてしまうのだが、資載は娘を佳清に嫁がせ、よく陣代を務めた。だが、佳清はそれが気に食わなかったのか、1年で資載の娘を離縁し、このことで両者は激しく対立する。
娘を嫁がせて傀儡化するのは古くからの常套手段であり、資載にその野望があったのか無かったのか、はたまた佳清がそれを察知して先手を打ったのか、この辺りは史料に出てこないが、結果として、讃岐藤家の両雄の対立は、讃岐藤家自体の没落を促した。
そうこうしている内に、土佐に興った長宗我部元親が四国統一の野望を携え、阿波白地城を天正6年(1578)かその前年に攻略して拠点とし、讃岐攻略を開始する。
当初、讃岐の諸豪族は、一致してこれに対抗していたが、香川信景が同7年(1579)年に降伏して元親の子を養子に迎え、以降は信景が諸豪族の説得にあたった。
資載もその説得を受けたひとりで、西の長尾氏が長宗我部軍に敗れた後、土器川付近で長宗我部軍の先陣である伊予勢を討ち破り、計8度もの合戦を凌いだといわれるが、多勢に無勢、やがて羽床城籠城へと追い詰められ、信景の説得で降伏を決断している。
そして、この中讃の名将だった資載の降伏により、長尾氏を始めとした周辺豪族も降伏した。
この後の資載は、元親の讃岐統一戦に従い、十河城攻略中に死去したため、嫡子資吉が家督を継ぐ。資吉の主君元親は、天正13年(1585)にほぼ四国を統一し、その直後に秀吉の四国征伐を受け、土佐に戻されるのだが、この四国征伐前後で資吉がどのような動きをしたかよく分からない。
だが、上方軍との戦いに奮戦して戦後は没落した佳清に対し、資吉は新領主の仙石秀久の重臣となっていることから、両者の間をうまく立ち回って生き延びたようだ。しかし、翌年の戸次川の合戦に秀久隊として参陣した資吉は、他の壊滅した四国勢と運命を共にし、資吉の討死によって城も廃城となった。
城の構造は、数10m程度の小山の頂上部を大きく削平し、土塁で区画した2つの郭を置き、北側中腹にも郭を設けている。また、主郭の一部がやや高台となっていることから、櫓もあった可能性が高い。
しかし、全体としては規模は大きくなく、いかにも中小豪族の城といった感じである。周辺には羽床上城という城もあり、羽床城単体でと言うよりは、幾つかの城砦で連携して守るという城だったのだろう。
羽床城へは、国道377号線から県道278号線に入ってすぐ羽床城の案内表示があるが、表示自体が小さいため、近くにある本法寺への表示を目安にしたほうが大きくて判り易い。案内表示に従って左折し、200m程行った左手の小山が城跡だ。
この道沿いに案内があるのでそれに従って奥へと進むと、小学生が作成したと思われる案内板があり、民家の門手前の農機具小屋の脇から山へ入れるが、そこは私有地のため、家の方に声を掛けたほうが良いだろう。家の方曰く、本来の登山道は、山裾をぐるりと回る形で登るのだが、山頂にタンクを造った際に直接タンクへ行けるよう造った道のほうが広いとのことだった。
登るのは数分で、山頂は広い削平地となっており、ここが本丸と二ノ丸である。間には虎口となる土塁があり、倒れていた本丸の表示板によれば、タンクのある方が本丸のようだ。二ノ丸の奥側には従来の登山道があり、やや高くなった場所に社があったが、これは往時の櫓台だった可能性が高い。
ただ、二ノ丸が竹薮化していて進むのに難渋し、社の近くまでしか行けず、社の向こう側の郭には行けなかった。後で知ったが、そこには説明板と城址碑があるらしい。
最終訪問日:2010/5/15
案内板を見ると、地元に愛されている城跡だなという印象でした。
ただ、結構竹藪化していましたが・・・
竹藪と夕闇迫る時間ということも相まって、主郭部の中心部の散策だけで満足はできたんですが、説明板のところまで丁寧に見て回らなかったのが少し悔やまれますね。