寒川氏が居城とした山城で、そのあまりの要害さから、昼寝しても落ちない城という意味で、昼寝城と呼ばれた。
東讃に勢力を張った寒川氏は、景行天皇の皇子である神櫛王の子孫という。神櫛王の子孫がやがて讃岐国造となり、さらにその末裔の千継なる人物が、延暦10年(791)に凡直という氏姓から公の氏姓、つまり讃岐公への改称を申し出たことが「続日本紀」に出ているが、この一族が讃岐朝臣として東讃に勢力を築き、その中で寒川郡司をしていた一派が寒川氏である。
寒川氏は、京都の寺院の寺領であった長尾荘や上久世荘の役職を務めて勢力を蓄え、やがて室町時代には寒川郡司として寒川郡と大内郡、そして小豆島を押さえる東讃の雄となり、讃岐守護の細川氏に仕えた。
正確な年代は不明なのだが、昼寝城築城もまた、この室町時代頃とされている。一説に、嘉吉年間(1441-44)に香川光治が築いたという。
寒川氏の主君である細川氏は、室町幕府内で大きな権力を持っていたため、細川家臣となった讃岐の領主も中央政治に参画しているが、寒川氏には中央での活動が見られず、一国人としての活動に終始したようだ。
管領として半将軍とまで呼ばれた細川政元の横死によって、両細川の乱が勃発した時も、寒川氏は、海側の諸豪族と同様に上洛する大内義興に従っており、細川家臣というよりも、独立的な国人らしい身の振り方をしている。
国内情勢の不安から、上洛していた義興が山口へ帰った後、細川氏や大内氏という大勢力の重しが取れた讃岐は、親細川・三好派と独立的国人が対立するようになっていく。この情勢に合わせ、寒川家当主の元政も、三好氏から一存を養子に迎えた十河氏や隣国の安富氏と、大永年間(1521-28)頃から天文年間(1532-55)にかけて激しく争うようになった。
ちなみに、この寒川氏と十河氏との争いで勇名を馳せ、鬼十河と呼ばれたのが、三好長慶の弟一存である。
この頃の讃岐の情勢は複雑で、阿波から讃岐支配を目論む阿波守護細川氏之(持隆)とその重臣三好氏、瀬戸内に影響力を残す大内氏、さらには独立的な国人が入り乱れ、情勢はかなり流動的であった。
寒川氏自身は、十河氏とは細川晴元の仲介で和睦したものの、安富氏との争いは収まらず、天文9年(1540)には、昼寝城が安富軍によって兵糧攻めされている。この時は、細川軍の救援で事無きを得たのだが、長年の遺恨は元政の子元隣の代にまで残り、やがて安富盛定が三好重臣篠原長房の婿という立場から三好長治に働きかけ、元亀元年(1570)か同3年(1572)に元隣が居していた虎丸城を含む大内郡を割譲させた。これにより、元隣は弟光永に任せていた昼寝城に退くこととなる。
その後、天正3年(1575)に、長治の依頼で出陣してきた海部氏によって城が攻撃され、昼寝していても落ちないといわれた堅城が、僅か2日で落城したという。この時の攻撃理由はよく分からないが、長治時代の最末期で統治が乱れており、何か理不尽な要求に反発して討伐されたのかもしれない。城を失った元隣は、長治の弟存保を頼ったようで、同10年(1582)の中富川の戦いでも存保に従い、討死を遂げたという。
落城後、昼寝城の事績は不詳となるが、天正10年(1582)に長宗我部軍によって昼寝城が攻撃されたと見られ、この頃まで城は機能していたようだ。だが、その後の事績も不明な上、西長尾城や虎丸城が長宗我部氏による改修を受けていることを考えると、そのような痕跡が見られない昼寝城は、峻険すぎるためか、そのまま廃城になったのではないないだろうか。
城は、主郭部に東西に並ぶ2つ郭と1段下の削平地という3郭しか無く、その規模も小さいため、城郭単体では中世的な詰城の機能しか無かったと思われる。また、領主は北側の麓に居館を構え、平時はそこで過ごしたようだ。
2つ並んだ郭のうち、社が祀られている西側の郭が城の最高部だが、規模はかなり小さく、大きい櫓台と言っても差し支えないほどで、防御力として主に機能したのは、西側の倍ほどの大きさを持った東側の郭だったのだろう。現在の登山道は郭の間に出るが、両者は武者走りのような土橋で繋がっているだけのシンプルなもので、また、東側の郭の東南部には土塁の跡を確認できることから、往時の大手道は、東か東南側にあったのかもしれない。しかし、削平地の周囲は両方とも矢竹が生い茂り、付属する他の遺構などがどの程度あるかは確認できなかった。
城へは、県道3号線沿いに昼寝城への案内表示があるが、向きもあって南下してきた方が表示は見やすく、北上の場合は見落とさないよう注意が必要だ。また、峠の付近に桜の名所という案内図と東屋が建っており、そこから昼寝城の遠景を見ることができる。
遠望すると、山容としては円錐に近い急峻な山で、攻めるには橋頭堡となる台地が無いため、一気に頂上まで攻め落とさなければ頭上から逆襲を受けそうな形だ。これを見ると、昼寝をしても落ちないという城名の由来に納得できる。
この案内板から少し下ったコーナーの所に案内表示があり、そこから指示通りに細い道を辿ると、そのまま城の登山口へ着く。案内表示が複数あるので迷うことは無いだろう。
登山道は、細かい礫質の小石が多いためか、一歩一歩が滑って歩きにくい。また、登山道周辺も大きな岩から割れたような石が多く、山全体が脆い花崗岩質でできているようだ。登ること約20分で山頂の主郭部に到着するが、木々が茂って眺望が無く、残念ながら爽快感は無かった。ただ、城跡はある程度下草が刈られており、散策はしやすい城である。
最終訪問日:2010/5/15
個人的には、説明板にあった古代の信仰集団や鉱物を求める工人集団と寒川氏との関わりが、気になるところですね。
同じく寒川氏の城だった虎丸城も、お城にするには峻険過ぎるほどのお城ですし、そういう宗教的なバックグラウンドがありそうで、気になります。