高松城は、生駒親正によって天正16年(1588)に築城された城で、海水を水門から堀に入れていることから、日本三大水城のひとつに数えられている。また、柿本人麻呂が讃岐の枕詞として「玉藻よし」と詠んだことから、周辺が玉藻の浦と呼ばれており、別名玉藻城ともいう。
中世の讃岐は、細川家の分国として細川氏の被官や在地国人が割拠し、戦国期には阿波細川家の家臣だった三好氏が勢力を伸張させ、三好氏から養子を受け入れた十河氏が中心的役割を担ったが、確固たる統一勢力は現れなかった。やがて、土佐から長宗我部元親が興り、讃岐も席巻されたが、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐で元親は降伏し、讃岐は仙石秀久と十河存保に与えられることとなる。
だが、九州征伐の前哨戦であった天正14年(1586)の戸次川の合戦で、秀久は失態を演じて改易され、存保も討死してしまったため、尾藤知宣を挟んで天正15年(1587)に生駒親正が引田城、そして宇多津城に入城し、讃岐一国の治所として翌年からこの城を築いた。
生駒氏は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、親正が西軍に与して細川幽斎の籠る田辺城攻略に兵を派遣したが、子の一正は家康と共に会津遠征軍に加わっており、戦後は一正の功によって親正が許され、讃岐も安堵されている。
しかし、一正の孫高俊の時の寛永17年(1640)に生駒騒動という家中の対立が起こり、讃岐を没収されて出羽矢島1万石に移されたため、讃岐は丸亀藩山崎家と高松藩松平家に分けられた。
寛永19年(1642)に高松へ入部した松平氏は、水戸徳川家初代頼房の長男頼重である。長男でありながら、なぜ水戸藩主にならなかったのかというと、頼房の兄である尾張藩の徳川義直や紀州藩の徳川頼宣に先んじて嫡子が生まれたことを憚ったためという。
結局、水戸藩は三男の光圀が継ぐことになったのだが、光圀はこれを生涯気にしたようで、頼重の子綱條を養子に迎えて水戸藩を継がせ、実子頼常を頼重の養子にし、高松藩を継がせた。また、頼重は将軍家光からも気に掛けられていたようで、御三家の庶流としては異例の12万石という高禄を与えられている。
高松藩は、この頼常の系統の松平家が幕末まで続いたが、御三家に繋がる家柄ということで、鳥羽伏見の戦いでは幕府側として参戦し、戦後は朝敵として征討の対象となった。高松藩では、家老の切腹や藩主頼聰が城を出て謹慎するなど、藩をあげて恭順の姿勢を示し、一時は土佐藩が進駐してその領地預かりとなったものの、なんとか討伐は免れている。
城は、本丸から二ノ丸、三ノ丸、桜の馬場、西ノ丸と時計回りに円を描いて広がってくという、渦郭式と呼ばれる城郭だったが、頼重が高松に入部した時に改修され、北ノ丸や東ノ丸が増築されて多少形が変わった。また頼重は、それまで三層四階だった天守を三層五階の南蛮造の天守にし、その地階の広さは四国最大であったという。
維新後は、明治3年(1870)に廃城が許可され、翌年には取り壊しと決められたが、大坂鎮台第2分営設置に伴い、解体は中止された。
しかし、天守閣は老朽化と維持費の増大から、明治17年(1884)に取り壊され、往時に20ほどあった櫓も、現在では艮櫓、月見櫓、渡櫓および水手御門の4棟が重要文化財として残っているほか、頼重が造らせた報時鐘が、月見櫓から道を挟んだ場所に移されているのみである。
また、城の敷地のうち、市街化を免れた部分は玉藻公園として整備されているが、その大きさは城域の約9分の1に過ぎないという。ちなみに、玉藻公園へ入るには入園料が要るが、城内の披雲閣や庭園、陳列館などの見学は無料になっている。
城内で最も城の残り香が感じられるのは、艮櫓や月見櫓、水手御門の辺りだが、個人的には、ちょうど干潮で堀から勢いよく水が流れ出ていた水門に惹きつけられた。この水門と海水の流れに、水城たる所以が集約されていると強く感じたからだろうか。城の海側にはフェリー乗り場もあり、水城らしく海を強く感じる城である。
最終訪問日:2006/5/24
訪れた時は、天守台石垣の補修工事のための道路を堀に構築中で、また、桜の馬場ではイベントの準備をしており、なかなか慌しい雰囲気でした。
また落ち着いた雰囲気の時に訪れてみたいですね。