
讃岐の豪族で、後に三好一族となった十河氏の居城。
十河氏は、景行天皇の王子神櫛王の末裔という伝承を持つ、古くからの地生えの豪族である。
神櫛王の3世の孫である須賣保禮命が、讃岐国造として下向し、子孫は讃岐公を賜って讃岐国内に勢力を扶養した。嫡流は後に京へ戻って和気朝臣の姓を賜ったが、庶流はそのまま讃岐国内に残って勢力を維持し、やがて在地豪族化して武士団化して行く。その中に植田氏を中心とする植田党があり、その植田氏の庶流が十河氏である。
「西讃府志」によれば、貞和年間(1345-50)頃、植田景保には景辰、景之、吉保という子がおり、後の管領職にあたる将軍家執事だった細川清氏が失脚して南朝に寝返った後、讃岐で兵を募った際に、この三兄弟が応じた。そして清氏は、三兄弟の参陣を喜び、最も早く参陣し、挙措も礼に適っていた吉保を惣領にするよう申し渡したとある。
これは、清氏の晩年である康安2年(1362)のことと考えられるが、この頃には十河城が吉保によって築城され、西尾城と呼ばれていたようだ。
ただ、一般には、十河氏は分家とされており、景保が居していた戸田城には、戦国末期まで本家と思われる植田氏が存在していた。このことから、惣領云々の話は、庶流が宗家を凌駕した現実の勢力関係の根拠を伝承に求め、創作したものなのかもしれない。
家系伝承の真偽はともかく、清氏の滅亡後、三兄弟を始めとする植田一族は、清氏を討伐した讃岐守護細川頼之に仕え、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱の際には、細川勝元に従って上洛するなどしている。
勝元の子政元の時には、政元の3人の養子が家督を巡って争い、政元もその余波で暗殺されるなど、いよいよ戦国時代の様相を深めて行くが、十河氏の当主景滋は、阿波細川家から養子に入っていた澄元に味方し、阿波細川家の重臣三好氏と連携して讃岐の澄之派豪族と対峙した。これによって三好氏に接近した景滋は、嫡子が早世していたこともあり、三好長慶の弟一存を養嗣子として迎え、これ以後、十河氏は三好一族となるのである。
養子に入った一存は、槍で腕を貫かれながらも傷に塩を塗って藤蔓で巻き、血止めをして戦ったという猛烈な逸話を持つ勇将で、鬼十河の異名をとり、兄長慶の覇業を援けた。だが、その生涯は短く、一存は永禄4年(1561)に有馬温泉で急死してしまう。
一存の死因には、落馬による事故説と松永久秀による暗殺説があり、暗殺説は、たまたま久秀が居合わせたことによるのだが、落馬による説でも、不仲だった自分の助言に反発することを予想した上で有馬へは馬では危ないと久秀が一存に言い、馬で行かせるよう仕向けたともいわれる。どちらにしろ、三好氏にとって軍事部門の最精鋭だった一存の死去は、その後の転落を予感させるものだった。
一存は、兄之虎(実休・義賢)の次男存保を養子にしており、一存の死後は存保が跡を継いだが、その後の三好氏は、之虎の討死や当主長慶の病没、松永久秀と三好三人衆の対立、信長の上洛などがあり、10年も経たずに加速度的に勢力を失って行く。
そのような中、之虎の跡を継いだ兄長治や、三好三人衆と協力して、存保も信長に抗したが、やがて本家を継いでいた一存の子義継が信長に攻められて討死し、長治も天正4年12月(1577.1)に長宗我部元親の支援を受けた細川真之に討たれると、存保は阿波の首城であった勝瑞館に入って讃岐と阿波に残存する三好党の惣領となり、北上する元親に対抗すべく、信長と誼を通じた。
しかし、天正10年(1582)に、四国征伐を目前にして本能寺の変で信長が横死すると、勢いを得た元親は阿波へ大規模に侵攻し、同年8月28日の中富川の合戦で三好勢は壊滅と言えるほどの敗北を喫してしまい、存保は、この敗戦の中で討死を覚悟したという。結局、存保は家臣に諌められて勝瑞城へ退去し、さらには1ヶ月の籠城の末に勝瑞城も開城して讃岐虎丸城へ移り、なんとか命脈を保った。しかし、元親は同時期に讃岐へも侵攻しており、中富川の合戦の頃には、すでにこの十河城も包囲されていたようである。
この頃、十河城は三好隼人が守っており、存保の入った虎丸城と共に長宗我部軍の攻囲に耐え、1度は軍を引かせることに成功した。しかし、天正11年(1583)とその翌年に、秀吉からの援軍として家臣仙石秀久が上陸と支援拠点化を試み、引田の戦いで長宗我部軍に敗北すると、後詰を失った存保は上方に落ち延びざるを得なくなり、十河城も同12年(1584)に落城したという。
ただ、元親の弟香宗我部親泰の文書に、十河城の包囲と存保の落去が記されているのだが、この十河城が虎丸城を指すのか十河城を指すのかは、不明である。つまり、存保自身が十河城に籠っていた可能性もあるのだが、詳しいことはよく判っていない。
この攻防の後、十河城には長宗我部親武が入った。だが、天正13年(1585)の四国征伐の際には、親武は植田城に籠っており、十河城は、防衛拠点としては放棄されていたようだ。
四国征伐で元親が秀吉に降伏し、土佐一国に戻された後、十河城に存保が復帰し、2万石を領している。しかし、九州征伐の前哨戦である天正14年(1586)末の戸次川の戦いで、四国勢の軍監となっていた秀久の強引な作戦により、上方軍の先遣隊であった四国勢は大惨敗を喫し、存保は元親の嫡男信親などと共に討死してしまう。そして、残った子存英は幼少であったため、相続を認められずに十河氏は改易となり、城も廃城となった。
現在の十河城跡には、称念寺が建てられており、境内が本丸跡というが、大正時代に整地されてしまっており、寺や周囲に遺構らしいものは見当たらない。周辺は小高い丘陵となっているが、当時の城の説明によると、東方向には崖、西には池があり、大手は南に開いていたという。
つまり、県道から寺に入っていく道が当時は崖だったということになるが、部分的に段差程度の落差はあるものの、崖というものでもなく、当時もそれほど切り立った崖ではなかったのだろう。ただ、寺の裏手には池が健在で、その池に面する部分は墓地として整備されており、もしかすると郭の跡を利用したものかもしれない。
最終訪問日:2006/5/24
戦国好きなら言わずと知れた、鬼十河の居城ですね。
鬼十河という強面の言葉からすると、ちょっと物足りない城跡になってしまってますが、兵どもが夢のあとという感じで、一存を偲ぶには良い風景となっていました。