四国八十八箇所霊場の第八十五番札所となっている八栗寺の、すぐ南西側にあった山城。
庵治や牟礼を領した中村恒頼の居城で、八栗山の南麓にある田井城が天正8年(1578)に火災で焼失したため、より峻険な八栗山に築城したのが八栗城である。
ちなみに、当時の恒頼は、事実上の三好惣領であった十河存保に属していたが、新城築城に際し、恒頼が存保に援助を求めたが断られ、両者の関係が悪化したという話もあるようだ。
土佐に興った長宗我部元親が讃岐へ侵攻を始めるのは、天正6年(1578)で、阿波の白地城から西讃へと侵攻した長宗我部勢は、香川氏や羽床氏などの有力国人を降しながら次第に東進し、十河氏の勢力圏の攻防がその最後となった。
恒頼も存保配下の武将として同11年(1583)の長宗我部軍の攻撃を2百余の兵力をもってこの城で迎え討ち、陣所とする六万寺から攻め寄せる攻城軍の撃退に一時は成功するが、その程度では大勢が覆るはずもなく、形勢不利を悟った恒頼は城を出て、備前へと落ち延びたという。
その後、城が使われたという史料もないことから、廃城になったと思われ、やがてこの時の兵火で焼失した寺坊の復興の際に、城地は寺の境内へと取り込まれていったようだ。
一方、備前に逃れた恒頼は、天正13年(1585)の四国征伐の功で讃岐を与えられた仙石秀久に仕えて讃岐へと戻ることができ、同16(1586)の戸次川の合戦にも従軍したという。そして、この合戦での失態によって秀久が改易となった後は、同じく讃岐を領した尾藤知宣に仕え、翌年の九州征伐にも参加している。
城があったのは、八栗寺の南西端で、八栗寺の二天門のやや先にある墓地の辺りが本丸跡とされているが、城跡を示すような遺構らしきものは見当たらなかった。
八栗城が築かれた当時は、八栗寺は山岳修行の寺という性格で、四国八十八箇所霊場の巡礼も江戸時代になってからの盛行であり、今のように多くの堂塔を持っていなかったと思われるが、元親侵攻の際に寺も兵火で焼失しており、寺坊も城の防御力の一部として計算されていたのだろう。
だが、江戸期の八十八箇所巡礼の隆盛を背景とした、時の領主松平氏の手による大規模な寺の再建と移転があったため、現在の寺の位置から連想して城を考えることは難しい。
現在は、ちょうど城があった場所の辺りに展望台があり、眼下には讃岐の平野部が広がっている。訪れた時は五月晴れの快晴で、心地良いそよ風が吹き抜け、ただひたすらに爽やかだったのだが、ここから同じように見下ろし、長宗我部軍の大軍を見た恒頼の頭には、いったいどんな想いがよぎったのだろうか。
最終訪問日:2010/5/14
お城の痕跡を見つけることは難しいですが、城跡の展望台からの景色は素晴らしいですね。
屋島と小野ヶ原山に絞られるように挟くなっている八栗や古高松の街並みの形が独特で、函館が思い起こされました。
夜景を見てみたいものですね。