Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

那古野城

名古屋城二ノ丸にある那古野城城址

 江戸時代に名古屋城があった場所には、戦国時代には那古野と称する古城があった。織田信長が幼少期を過ごした城として有名な城である。

 那古野城の一帯は、平安時代末期に開発された那古野荘という荘園で、東大寺別当小野法印顕恵が開発をし、顕恵の姪で後白河上皇の妃である建春門院に寄進され、その領家職は建春門院の子孫に伝えられた。そして、後に顕恵の兄藤原惟方の孫経長が領家職を引き継ぎ、娘にも相続権があった時代は経長の女系の子孫が相続していったという。

 その後、この家系は婚姻か何かで美濃源氏足助氏と繋がりが出来たことから、鎌倉時代末期から南北朝時代頃は、実質的に足助氏が領有していたようだ。しかし、これ以降の詳細ははっきりせず、やがて、室町時代に今川庶流の那古野氏が領主として登場してくる。

 那古野氏は、今川氏の庶流とされているが、その祖は明確ではない。今川氏の初代国氏の娘が名越氏の裔とされる在地領主の名兒耶(名児屋)氏に嫁いだことから、その子孫が女系ながら今川一門として迎えられたという説と、今川了俊貞世の弟である仲秋や氏兼が短い期間ながら尾張守護を務めた時期に代官として尾張に入部した今川一門という説があるが、どちらも史料的な裏付けは無いようだ。尾張國誌では、この那古野氏の築城は那古野氏によるとしているが、築城時期に関する記述は、残念ながら無い。

 次に登場してくるのが今川氏豊で、永正5年(1508)に遠江守護となった今川氏親が、尾張守護斯波義達との争いを制して同14年(1517)に遠江を平定すると、斯波氏の監視や尾張進出の拠点として大永年間(1521-28)の初期頃にこの城を築城し、子の氏豊を城主に据えたという。また、同時に氏豊は、那古野氏へ養子に入ったともいわれる。

 この築城年としては、埋蔵文化財センターの資料で同4年(1524)頃、発掘調査の説明資料で同2年(1522)としており、定説は無いようだ。また、この頃の城は柳之丸と呼ばれており、ほぼ単郭居館に近いものだったのではないだろうか。

 また、この氏豊に関しては、判っていない事も多い。まず、今川氏の系図に氏豊の名が無い事が挙げられるほか、永正16年(1519)生まれの義元の弟であれば、那古野城入部時に幼過ぎる事などである。これらから、氏豊は氏親の子ではなく今川氏の傍流とする説もあるという。しかし、年齢に関しては、言継卿記にも年齢の記載があり、幼少だったのは事実のようだ。とすると、氏親の意を汲んで全てを差配できる優秀な家老を据えることで、城主としては、能力よりも象徴としての血の濃さが優先されたのかもしれない。

 那古野城が築かれた頃、尾張では、義達の跡を継いだ義統が幼かったこともあり、守護代織田氏の勢力が斯波氏を上回りつつあった。清洲織田家の信友が、守護の義統を傀儡として居城に住まわせたのもその象徴だろう。

 だが、その織田氏も一枚岩ではなく、応仁元年(1467)からの応仁の乱の際の斯波家の内訌時に台頭した分家筋の清洲織田氏と、本家筋の岩倉織田家が勢力を二分する状況であり、信友が義統を保護したのも惣領を目指しての事だったが、この頃に急激に頭角を現しつつあった真の実力者は、清洲織田家の分家で清洲三奉行のひとつである、弾正忠織田家の信秀であった。

 信秀が本拠としていた勝幡城は、尾張西部にあったのだが、勢力が拡大するにつれ、尾張中央部への進出を図るようになる。そして、信秀は那古野城に目を付けたわけだが、城主は年若い氏豊で、与し易いと見たのだろう。

 信秀は、氏豊の主催する連歌会に通って氏豊と親密になると、ある連歌会の時、急に病を発して家来に遺言をしたいと氏豊に願い出た。氏豊が許すと、家来が見舞いと称して入城し、にわかに蜂起して城を乗っ取ってしまったのである。こうして信秀は兵を失わず、まんまと城を得たのであった。

 ただ、この話は、一般に天文元年(1532)の話とされるが、同7年(1538)の説もある。言継卿記には、同2年(1533)に勝幡城での蹴鞠の記録があり、その場に氏豊も招かれていたとあるほか、年齢は12歳としており、日記の年や連歌会を主催し得る年齢などを考えれば、後者が有力な説というのに納得がいく。

 那古野城を奪取した信秀は、一般的には天文3年(1534)の信長の誕生を機に古渡城を築いて本拠を移し、信長に城を譲ったとされるが、前述の那古野城奪取の年により内容が違ってくる。前者ならば信長はこの城で生まれた事になるが、後者ならば信長は勝幡城で生まれ、信秀は奪ったばかりの那古野城を信長に譲って古渡城へ移ったことになり、この城の果たす役割も変わってくるだろう。また、この2つの説に対応して古渡城の築城時期も2説あるのだが、この辺りは今後の研究に期待したい。

 天文20年(1551)から翌年に掛けてとされる信秀の死後、家督を継いだ信長は、この城の城主から飛躍し、過酷な一族内の権力闘争を勝ち抜いて行く。主家筋にあたる清洲城の信友に対しては、天文23年(1554)に義統の子義銀が信長に援護を求めたのを機として翌年に兵を挙げて滅ぼし、本拠をこの城から清洲城へと移している。そして、弘治2年(1556)には家督を望んだ弟信勝を稲生の戦いで破り、その翌年には謀殺し、更に岩倉織田家の信賢を永禄2年(1559)に追い、犬山城の織田信清とは同5年(1562)に反目した上で2年後に追放するなど、尾張国内の一族を次々に滅ぼして念願の国内統一を果たしたのだった。

 この尾張の統一の過程で、前述のように本拠を清洲城へ移したことから、那古野城へは信長の叔父信光が入るが、弘治元年(1556.1)に信光が不慮の死を遂げると林通勝(秀貞)へと代わり、これ以降の城の様子は判らなくなる。一説に、天正10年(1582)頃に廃されたともいわれ、同年の本能寺の変と関係がありそうではあるのだが、その辺りもはっきりしない。この後、城地は原野に還ったようで、慶長14年(1609)の名古屋城の築城開始まで、世間から忘れられていた。

 那古野城は、名古屋城の二ノ丸から三ノ丸中央北側周辺、具体的には愛知県体育館辺りにその中心部があったとされるが、当然ながら名古屋城築城によって大幅に改変されているため、遺構というものは無い。

 城跡を示すものは、名古屋城二ノ丸にある城址碑のみであるが、この碑も空襲によって溶け、那古までが読めるだけである。しかしながら、北側に御深井池があり、名古屋城の西側は台地の崖であったことから、那古野城でもこの高低差や湿地帯を防御力としていたというのは簡単に想像がつく。北と西が堅いというのは、斯波氏の清洲城を睨んでいた今川氏にとってはうってつけだったのだろう。

 名古屋城の三ノ丸の発掘調査では、那古野城のものとみられる薬研堀が検出されており、氏豊時代のものと推定されている。また、城主が織田氏へと代わる頃に、堀を埋めるなどの大工事を伴う大幅な区画替えが行われた事が判明しており、支城となった後にも拡張された可能性があるという。今後、三ノ丸の建物建て替えに伴う発掘調査が追い追い行われていけば、発掘成果によって実像がもっとはっきりしてくると思われるので、気長に待ちつつも期待したいところである。

 

最終訪問日:2010/12/27

 

 

名古屋城の二ノ丸に城址碑がありますが、ここまでしっかり見る人は多くないですね。

名古屋城に来ている人で、那古野の字まで知っている人は、マニア度が高そうです。

ちなみに、タクシーの運転手さんによると、城のすぐ近くに同じ字で那古野と書いてナゴノと読む地名があるそうな。